HOWS「小林勝と日朝連帯の思想」を受講して
故郷を暴く ―― 小林勝との出会い
『禁じられた郷愁 小林勝の戦後文学と朝鮮』(原佑介著)に係る書評を執筆するよう編集部から依頼されたのは、昨年十月中旬のことだった。小林勝ほど朝鮮に向き合った作家はいないという評価だけは耳にしていたので興味はあった。しかし、肝心の作品には一つも触れたことがなかったため、この依頼を受けるのはかなり躊躇われた。そこで急遽、編集部からお借りした小林勝作品集(全五巻)一巻と四巻に目を通し、原佑介の論文を二度読み、何とか締め切りに漕ぎ着けたのだった。
(書評「朝鮮のことで悩んだことがあるか」二〇二〇年十二月一日号『思想運動』に掲載。)以来、小林勝はわたしの頭から離れない存在となった。その後、市図書館から残りの作品集(二巻・三巻・五巻)を借りて耽読した。奇しくもそんな折りに卞宰洙さんの標記講座(五月十五日)があることを知った。
小林勝の「故郷」
当日の講演をわたしのメモに基づいて一部紹介する。小林勝を求める日本人は、現在ほとんどいないだろう。精神の欠落、無責任さに向き合うことが至上の問題であったはずなのに戦後の日本文学は朝鮮問題をまともに扱ってこなかったと小林勝は述べている。「創氏改名」は苗字と名前を強制的に日本人風にさせるものだったが、このような政策は他の植民地下には見られないものだった。日本人は朝鮮人を見下していたが、勝海舟は「日本人が朝鮮人を馬鹿にしだしたのは最近(明治になってから)のこと。その前は、朝鮮が師匠だった」趣旨を著している。
小林勝は明らかに日本の朝鮮植民地政策を暴き出すために文学に向かったのだろう。
「フォード1927年」「軍用露語教程」「架橋」といった作品が芥川賞候補にノミネートされたことがある。文才もあり、小説だけでなく、詩、戯曲、評論なども書いている。しかし小林勝は文壇的名声には目もくれず、自分にしか描けないもの(朝鮮問題)に拘り続けた。
小林勝は作品の中で、朝鮮人は気味が悪い、本心がどこにあるのかわからないといったような登場人物を創り上げている。それは朝鮮人の「反抗」に根ざしている。一九一〇年から日本の朝鮮植民地政策が始まったが、反対を表明した日本の文学者は「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と詠んだ石川啄木のみである。
小林勝が行き着いたところはもっとも矛盾を孕んだ存在である「在日朝鮮人」だった。
晩年は、もっぱらこの問題に集中している。一九六九年に思想運動が結成されると小林勝はすぐに加入して在日朝鮮人問題に取り組んでいる。かつて特高は、各家庭に入り込んで朝鮮語を使っていないか調査していた。解放後、在日朝鮮人は言葉を取り戻すべく各地に国語講習所を設け、それが後に朝鮮学校へと発展していく。小林勝はこのことを高く評価している。他の文学者でこんな人物はいない。小林勝は本当に朝鮮を愛した人だと思う。
『禁じられた郷愁』は優れた小林勝研究の書だ。小林勝は朝鮮を「懐かしい」と言ってはならないと繰り返し繰り返し言っている。室生犀星は「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と詠んだが、小林勝の故郷は朝鮮であり、わたし(卞宰洙)の故郷は名古屋だ。それは間違いのないことだが、小林勝が朝鮮を「懐かしい」と言ってはならいとしたのは、日本の植民地政策を懐かしむことになるからだ。
小林勝は晩年の拠点を思想運動に求め、在日朝鮮人を解放することが朝鮮を解放することに通じると信じて執筆活動に取り組んだのだった。
ボタ山を見る眼
冒頭、卞宰洙さんは「小林勝を求める日本人は、現在ほとんどいないだろう」と穏やかな口調で語られた。その言葉をわたしは重く受け止める。
日本社会は、戦後七五年以上が経過してもなお在日朝鮮人に対する差別が止まず、歴史修正主義者が跋扈する現況下にある。
「1948年に起きた阪神教育事件があります。これは、全国の朝鮮人学校を閉鎖するという政府の決定に抗議した在日朝鮮人と共産党が、大阪と兵庫で起こした暴動です。」(『百田尚樹の日本国憲法』より抜粋。)と表現したのは、現在、広く知られている「ベストセラー作家」である。「阪神教育闘争」を知る日本人は残念ながら少ないだろう。初めて知る機会がこのような「ベストセラー作家」によるものである確率は高いかもしれない。何ともやり切れない思いがする。
ところで、わたしは炭鉱で知られた筑豊の田川で生まれ、もの心がついてから小学校低学年まで飯塚で育った。二年前に九三歳で他界した父は、その頃、炭鉱で働いていた。夕方になると顔を真っ黒にして帰ってきたものだ。わたしは、兄や友と、ときには一人でよくボタ山( 1)に登った。ボタ山はわたしにとって原風景となっている。三〇年ほど前、ただボタ山を見たいがために、千葉から兄と車を走らせて飯塚を訪れたことがある。ヤマは、草木に覆われ、まるで自然の山のように姿を変えていたが、兄とわたしはヤマと再会して興奮していた。
講座終盤の言葉「小林勝が朝鮮を『懐かしい』と言ってはならいとしたのは、日本の植民地政策を懐かしむことになるからだ」はさらに重い。わが身に置き換えれば「飯塚を懐かしいと言ってはならぬ」となる。多くの朝鮮人が筑豊をはじめとする炭鉱で強制労働に従事させられ、少なからぬ命が奪われた歴史を子どもの頃のわたしは知る由もなかった。何も知らず無邪気に遊んでいた頃のボタ山をわたしは懐かしいと思っている。しかし、小林勝は、朝鮮で生まれたことに自分に責任はないが、だからと言って自分が「日本帝国主義と植民地から除外されるわけにはいかない。歴史とはそういうきびしいものだ。そして私をふくめて全日本人はこの歴史を体の一番深いところで背負ってゆかなければならない。」と語っている。「懐かしい」気持ちを抑えることはできないが、痛ましい歴史から目を背けることもできない。
(註)
(1)ボタ(石炭を採掘した際に出るくず)を捨てて積み上がった人工の山。筑豊地方のボタ山は、ほとんど取り崩されたが筆者が登ったボタ山は現在も残されている。映画『三たびの海峡』(帚木蓬生原作・神山征二郎監督)に映し出されるボタ山がそれである。
【堀川久司(千葉ハッキョの会)】
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