HOWS講座
明真南斗『琉球新報』記者が報告
「復帰」五〇年、沖縄の現実は


沖縄「復帰」五〇年を翌日に控えた五月十四日のHOWSは講師に『琉球新報』の明真南斗(あきら まなと)記者を招き、「復帰」五〇年の沖縄の現実を写真や動画を交え語ってもらった。以下はその要旨。 【編集部】

カメラマンに銃口が

四月に東京に赴任したばかりで、東京支社で防衛省を担当しています。沖縄でも米軍基地の問題を中心に取材してきました。施政権返還という表現をされますが、これは国と国との間での言い方であるように思います。沖縄では「復帰」と言うことが多いです。
三月三十一日、那覇軍港での米陸軍と海兵隊の訓練を琉球新報のカメラマンがフェンスの外から撮影したら銃を向けられました。警備の米兵が銃を水平に向けて数秒間構えた。米軍当局は狙ったつもりはないと否定したが、すぐ国道に面して、住民に見える位置です。県民の生活圏のすぐそばで訓練がやられ県民が暮らす方向に銃口が向けられたことが問題なのです。米軍はヘリの低空飛行も動画や写真で公開しています。自分たちはこういうふうに頑張っていると広報するわけで、県民と基地の中とで意識がいかにかけ離れているか。ヘリはドアを開け銃座を構えたまま飛行訓練をやり、そこから物が落ちる。訓練場で実際に撃っている写真も広報しています。
二〇一七年十二月七日、宜野湾市の緑ヶ丘保育園に米軍ヘリから部品のカバーが落ちた。保育園の上空を飛ばないでという署名を保護者で集め、翌年四月まで一三万筆を超えました。六日後、ヘリCH53Eの窓が今度は近くの普天間第二小学校の校庭に落下した。約六〇人の児童が体育の授業中で二年生はボール遊び、四年生の男子は縄跳び、女子は鉄棒をやっていた。一週間以内にまた事故が起きたのはまさかと思った。一m四方、重さはおよそ七・七㌔。一番近くにいた児童は一〇mほどの距離でした。先生が誘導して教室に入った途端泣き出す子も。学校では事故が起きた十二月十三日には翌年から事故をふり返る会をもつようになったのですが、二年生のとき事故に遭遇したある男子は卒業するまでその会に出ることができなかった。その日になると必ず体調を崩してしまう。事故のあと、運動場の上を米軍ヘリが飛ばないと確約するまで運動場は使わないとしたのですが、米軍は「最大限努力する」と言うだけ。日本政府も約束を米軍から取り付けることができない。防衛省の予算で監視員をつけ、ヘリが飛んで来たらすぐ避難させるという条件で運動場の使用を再開しました。つねに上空を心配して、市教育委員会の担当者は「まるで戦争中のようだ」と表現しました。一時間の体育の授業中に何度も避難しなくてはならない。授業にならないので翌年の九月にはこの警戒態勢を解除せざるをえなかった。それまでに避難した回数は七〇〇回以上です。窓を落としたCH53Eというヘリの前の機種が二〇〇四年に沖縄国際大学に墜落したCH53Dで、そのときは乗務員三人が負傷したものの夏休みだったから(八月十三日)学生や大学の職員に死傷者は出なかった。本館一号館にぶつかって駐車場に落ちた。普段なら学生たちがよく集まる場所です。
普天間飛行場の周りは住宅、学校、病院が多い。米国内の基準ではこんな飛行場は禁止です。滑走路の両端は何もないクリア・ゾーンを設けないといけない。戦後の混乱の中で建設され米軍の都合で拡張されてきたから、宜野湾市の真ん中を飛行場が占め、周りに人口一〇万人がひしめく。基地の面積を抜けば人口密度は東京都や大阪府より高い。
沖縄県全体では三一の米軍専用施設があります。総面積は一万八四八四ヘクタール。沖縄の面積の八%が米軍基地。人口の九割が集中する沖縄本島では一五%が基地で、東京都と比較すると二三区のうち一三区を基地にとられていることになります。山手線の内側三つ分の広さだ。復帰した一九七二年五月時点で日本全国の米軍専用施設の五八・七%が沖縄にあったのが、二〇二〇年には七〇・三%になった。日本の〇・六%の面積しかない沖縄に全国の七割の基地が集中しています。他ではかなり進んだ基地の縮小・返還が沖縄では進まなかった。
沖縄の周りのかなりの海と空は米軍の管理下に置かれていて、そこで訓練が行なわれます。海域二七か所、空域二〇か所で、漁業も民間機の飛行も制限される。その広さは海域が九州の一・三倍、空域は北海道の一・一倍です。
元海兵隊員のレイプ殺人もあったが、毎週のように飲酒運転での逮捕者が出る。米軍ヘリの騒音は日常的に八〇デシベルから一〇〇デシベル。八〇デシベルというとパチンコ店の中や救急車のサイレン。一〇〇デシベルは地下鉄の構内とか電車が通るときのガード下です。戦闘機の離着陸は一二〇デシベルに達し、日に何度もあるので難聴を訴える人もいる。米軍基地からは毎朝国歌も流れてくる。朝、洗濯物を干しているときに米国国歌と君が代を聴かされるのは精神的に辛い。
最近大きな問題になった泡消火剤の泡は、ヘリや飛行機が炎上して普通の消火剤では効かないとき使う強力なもので、有機フッ素化合物が含まれる。PFASと総称され、その中に日本国内では製造も使用も禁止のPFOSとか、あるいはPFHxSなど数千種類あるという。発がん性があり、胎児の低体重リスク、成人の生殖機能減退、肥満、甲状腺疾患につながる危険がある。PFASの血中濃度は、宜野湾市民のPFOSが全国平均と比べて約四倍、PFHⅹSは約五三倍。どのように河川に流れ込み水道水に混じりこんだか、沖縄県は二〇一六年から立ち入り調査を求めているのに日米地位協定で米軍基地内に入らせません。ところが、最近泡があふれ出た原因が判明した。海外演習から戻って一定期間格納庫に隔離された米軍兵士たちが、隔離期間を終えてバーベキューをやり、その煙に格納庫の消火装置が反応して作動したのです。米軍が泡を回収したかというと、基地の外に漏れ出た分は宜野湾市の消防にやらせた。

自衛隊の南西シフト

日本にいる海兵隊の九割は沖縄にいて、沖縄の米軍の六割が海兵隊です。機動展開前進基地作戦(EABO)は離島にヘリからパラシュートで降下、占拠する。沖縄でその訓練をやる。同時に進んでいるのが自衛隊の南西シフトです。防衛省は二〇一六年に一六〇人の沿岸監視隊を与那国に置いた。二〇二〇年には宮古島に七〇〇~八〇〇人のミサイル部隊を配置、今年度末までには石垣島に五〇〇~六〇〇人の部隊を配置したいと岸防衛相は言う。二〇二三年には沖縄本島にも地対艦ミサイルが配備される方向で、奄美から石垣までのミサイル部隊を統括する役割を本島に持たせる。九州も一体となって長崎に日本版海兵隊と呼ばれる水陸機動団を置く。沖縄が戦場になることを想定した計画になっています。
すると県民の避難はどうするのか。宮古島の人口は約五万五〇〇〇人、与那国は約一七〇〇人、石垣市で約五万人です。自衛隊の人と議論すると「国民の保護は自治体の責任。総務省の所管になっている」と言う。自治体が戦時を想定できるのか。港も飛行場も米軍や自衛隊が使う可能性があるなかで、避難できるのか。
沖縄戦では米軍も合わせて全戦没者は二〇万六五六人。そのうち沖縄県出身者は一二万二〇〇〇人で、県出身軍人・軍属二万八二二八人、一般住民が九万四〇〇〇人です。沖縄県民の四人に一人が死んだ。なぜこんなに多くの住民が巻き込まれたか。本土防衛のための時間稼ぎにされたからです。首里城地下の日本軍(第三二軍)司令部がやられた時点で降伏せずに司令部ごと南下、膨大な住民の犠牲が拡がっていく。日本兵による食料強奪や家族が避難していた壕からの追い出し。赤ちゃんが泣けば親に口を塞がせる。日本兵が殺してしまう。米兵よりも日本兵が怖い。
座間味島では日本軍が駐留していた集落だけ集団自決が行なわれたとする研究があります。しまくとぅばをしゃべると日本兵はそれがわからないから米軍に通報されるのではと疑う。投降しようとしたら殺す。軍隊は住民を守らない。これが沖縄では今でも浸透している戦争の記憶です。第三二軍司令部の航空参謀だった神直道氏は一九九二年に「住民は作戦遂行の妨げ。住民保護は作戦に入っていなかった」と証言しました。先ほど紹介した自衛隊員の言葉も共通しているのではないか。沖縄県民の先祖の誰かは沖縄戦で死んでいる。わたしも祖父母から戦争はどんなものであったかを聞かされてきた。軍事的に中国を押さえ込んでいこうというやり方には沖縄では懸念があります。

全国から声上げれば

普天間飛行場が無くなっても全国の米軍基地の七割が沖縄に集中していることに変わりはありません。それでも普天間を返還するなら辺野古に基地を作ると譲らない。しかもその新基地には艦船を横づけできるとかの普天間には無かった機能が付けられる。訓練がより激しくなるおそれがある。そういう状況で「復帰」五〇年を祝うことはできません。復帰したことで社会インフラ、教育の面などでいい点もある。しかしわたし自身は、基地の面に限ればよくなかったと思っています。辺野古新基地建設は沖縄だけで声を上げても止まらないが、全国が反対と言えば止まります。関心を持ち続けてほしい。

報告後の討論より

約一時間半にわたり、明記者から要旨以上の報告を受けた。休憩後の質疑では辺野古の海でみつかったアオウミガメの死骸と基地工事との関連、オール沖縄また沖縄における労働運動の状況、天皇に戦争責任があるのは明らかなのに天皇制批判が出てこない現状、沖縄に対するマスコミ報道についてなど多くの質問が出され、今年発足した〈命どぅ宝の会〉の取り組みを支えていきたいという声も参加者から出された。そもそも「復帰」とは何であったかの問いに「ただ日本に復帰したいというのではなく、平和憲法のある日本なら基地が無くなるのではないか、だから戻りたいということ。ところが復帰以降、沖縄に基地を背負わせる体制がより強固に巧みになっている。軍事的緊張の中で〈国を武力で守る〉というのではなく、緊張関係そのものを緩和していかなくては」と応答があったことが印象に残る。講座参加者の多くは翌日の日比谷デモ(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック主催、六面に詳報)に参加した。
【まとめ=土田宏樹】

(『思想運動』1077号 2022年6月1日号)