HOWS2022
夏季セミナー報告

中国との友好関係阻む日本の執拗低音
国交回復五〇周年、日中関係の未来を探る
                       浅井基文(国際政治学者)

 HOWS2022年夏季セミナーの一日目(七月三十一日)では、国際政治学者の浅井基文氏が「日中関係の未来のために」と題して講演を行なった。以下はその要旨である。
                                      【編集部】

 わたしは、二〇二一年八月から九月にかけて、「梨の木ピース・アカデミー」(NPA)が主催するZOOM講座シリーズの一環として、「戦後日中関係を切る」というジャーナリスティックなタイトルで六回のお話をしました。最後(第六回)のテーマは「日中関係の現状と展望︱︱問題点と可能性」というものでした。今回、HOWSでお話しするためのレジュメを作るための参考にしようと思い、当時作った第六回のレジュメを読み返してみました 。
 結論から申し上げれば、とても僭越な物言いになりますが、そこでの話の内容は「日中国交回復五〇年の今年、日中関係の未来を探る」という本日のテーマにもぴったり当てはまる内容であるということでした。付け加えることがあるとすれば、岸田政権が誕生してからの約一年間の日中関係について事実関係をお話しするぐらいなものです。中国側は盛んにシグナルを送っているのですが、岸田政権は「なしのつぶて」です。要するに、安倍・菅両政権の対中政策を踏襲していて、変化の兆しはこれまでのところゼロだということです。変化がない理由は、岸田政権がバイデン政権の要求通りに動いており、この記念すべき日中国交回復五〇年の今年を期して日中関係を根本的に改善するという問題については何の意思表示もないままにうち過ごしてきているためです。宏池会のリーダーとして、このまま無為無策で九月二十八日を迎えることはさすがにないと思いますが、しょせんは「付け焼き刃」でしょう。長期政権を目指す習近平は中日関係を極めて重視しており、ほんの少しでも「脈がある」ならば、「付け焼き刃」であることを承知の上で岸田政権の「提案」に乗ってくる用意を示すだろうと思います。しかし、歴史認識問題、台湾・領土(尖閣)問題、日米同盟優先・中国敵視問題という三つの根本的な日中間の問題を直視しない岸田政権・自民党政治のもとでは、日中関係の抜本的改善を望むすべはない、というのがわたしの率直な結論です。
 本日は、その報告内容を参照しながら、お話していきたいと思います。

はじめに

 わたしは昨年秋の自民党総裁選挙で「反中」を競い合う候補者たちの醜い姿にうんざりしましたが、それにも増して暗然としたのは、①マス・メディアが、「反中」を競い合うこの見にくいまでの狂騒劇を何の批判もなく「垂れ流し」していたこと、また、②総選挙を前にして国民に政策を争点にして自民党を批判するべき野党のどこからもこの自民党の狂騒劇とマス・メディアの「垂れ流し報道」に対する批判が皆無であったこと、したがって、③すでに早くから「反中」「嫌中」に染まりきっている大多数の国民が「狂騒劇」と「垂れ流し報道」に何の違和感も覚えずに身を任せていたことです。日中関係を真剣に考える人が日本の政治を担う日が一日も早く現れることを願ってやみません。
 わたしはこれまで、「梨の木ピース・アカデミー」での話で、次のことを明らかにすることに努めてきました。
 (1)中国は戦後の早い時代から、日本軍国主義に対する怒りが渦巻いている中国人民に対する辛抱強い説得工作を行いながら、一貫して中日民間交流に力を入れ、中日復交を実現するための条件作りに注力してきたこと。
 (2)アメリカが中国敵視政策を転換したこと(ニクソン訪中)で可能になった中日国交正常化交渉に臨むにあたっては、中国は日本に対して絶対に譲れないポイントを最小限に絞り込み、それ以外については最大限の譲歩・妥協を行う用意を示したこと。
 ――絶対に譲れないポイントとは、①日本が過去(日本軍国主義の対中国侵略戦争)に対して真摯な反省を行い、その反省を未来に活かしていく約束を行うこと、②中国政府が唯一の合法政府であり、台湾は中国の不可分の一部であること、③両国は覇権を求めず、両国間で起こりうる問題・紛争は話し合いで解決すること、以上の三点です。
 最大限の譲歩・妥協とは、①戦争終結問題の「玉虫色」処理、②戦争賠償請求権の放棄、③領土(尖閣・釣魚島)問題を取り上げないこと、④日米安保条約問題(特に第5条「極東条項」)を取り上げないこと、⑤台湾の領土的帰属に関する日本側法的立場に対する配慮、以上の5点。これら5点に共通するのは、サンフランシスコ体制堅持を大前提とする国交正常化しかありえないという日本政府の主張・立場を中国が受け入れたということです。
 (3)共同声明で約束したこと、とくに「日中は覇権を求めず、日中間で起こりうる問題・紛争は話し合いで解決すること」について、平和友好条約締結によって日中双方に対する法的拘束力を持たせること。
 (4)一九八九年(天安門事件)を除けば、日中関係は常に日本側の原因(小泉首相の靖国参拝、民主党政権の尖閣「棚上げ」合意否定と尖閣の「国有化」、安倍政権の日米同盟強化と中国敵視をセットにした政策)によって悪化し、中国はその都度機会を探って、共同声明及び平和友好条約の諸原則に基づく関係改善に努めてきたこと。
 日中国交正常化及びその後の日中友好関係を可能にした最大の要因は、アメリカが中国敵視政策を転換し、日米同盟(サンフランシスコ体制)の中国に対する敵対的本質が「解消」したことです。
 しかし、その後の事態の展開が示すとおり、この「解消」は一時的であり、日中関係の拠って立つ前提(米中関係)は脆弱でした。アメリカの対中国政策したがって日米同盟(サンフランシスコ体制)が中国に対する敵対的性格を再び露わにした時、日中国交正常化交渉で中国が「絶対に譲れない」とし、日本が受け入れた上記①~③を引き続き誠実に遵守する場合、具体的には声明・条約を遵守する場合にのみ、日中両国は環境の変化という試練を乗り越えて友好関係を維持することができます。大胆に想像を働かせれば、中国はアメリカの対中政策(つまり日米安保条約)が再び対中敵対に変化する可能性を織り込んでいた可能性があります。その変化に影響を受けない中日関係を構築するべく、中国は上記三点を絶対に譲れないポイントとして日本に受け入れさせようとしたのではないでしょうか。
 上記の①~③に即して見れば次のようになります。
 ①の日本が過去を反省し、未来に活かしていくとは、アメリカが日米安保条約第五条(「極東条項」)に基づいて、「台湾有事」における日本の対米協力を要求した時、日本はこの要求を拒否することが求められます。反省を未来に活かすとはそういうことです。また②および③に関しては、日本政府は声明第三項で「ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持」することを約束し、条約第一条で「主権及び領土保全の相互尊重」の原則の上に、「相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認」しましたから、アメリカの要求を拒否する法的義務を中国に対して負っているのです。
 今日の最大の問題は、日本政府はおろか日本全体が日中共同声明及び日中平和友好条約が日本に対して以上の法的拘束力を持っていることを忘れ去ってしまっていることです。そのために、世界覇権に固執するアメリカが中国をライバル視し、特に台湾問題を利用して中国と対決を推し進め、日本に共同歩調を取ることを要求してくると、もともと親米・反中の日本政府は「待ってました」とばかり飛びつき、はしゃぐことになるわけです。

歴史認識問題

 日中間の歴史認識問題は、第二回にお話しした日中国交正常化交渉で中国が問題視(田中首相スピーチ「ご迷惑をかけた」)し、日中共同声明前文(「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」)で「折り合い」がつけられた、日本軍国主義による中国侵略戦争に対する日本の「反省」に関する中日の認識・受け止めの懸隔に由来します。端的に言えば、「歴史を鑑とし、未来に向かう」(中国)と「過去を水に流す」(日本)の違いです。中国は上記前文の意味を、日本は「過去の過ちを反省し、その過ちを二度とくり返さない」ことを約束したと受け止めます。しかし、日本は「反省したことで区切りをつけたのだから、それでピリオド」なのです。
 さらにいえば、日本国内には、「侵略戦争」であることを認めること自体を拒否する歴史観(皇国史観)が今や教科書の記述を支配し、ますます多くの国民の歴史認識を支配する勢いです。この歴史観を体する政治勢力(自民党右派勢力=親台派)は一九七二年当時もすでに大きな発言力を持ち、交渉に臨む田中首相に圧力をかけました。共同声明に日本の明確な謝罪表明がなく、「責任を痛感し、深く反省する」という表現で「落ち着いた」のは、中国側の強い姿勢と自民党右派勢力の圧力を踏まえた「ギリギリの表現」でもありました。
 わたしたちが考えなければならない第一のポイントは、「歴史を鑑とし、未来に向かう」(中国)という歴史認識は古今東西を問わないものであり、「過去を水に流す」日本的な受け止めは世界的に通用しない代物であるということです。第二のポイントは、日本の侵略戦争・植民地支配の歴史は客観的な史実であり、「皇国史観」もまた世界的に通用しない代物だということです。世界的に通用しない歴史認識・歴史観が日本国内で幅をきかすのはなぜなのか。この問題を直視し、その原因を突き止めなければ、わたしたちはこの歴史認識・歴史観を根本的に清算することは不可能です。
 議論を誘発する意味で、わたしの理解を参考までにお話しします。
 実は、わたしはNPAの昨年十一月二十五日のお話し(「日本外交の「執拗低音」」)でこの問題を取り上げたことがあります。わたしは外務省での実務体験の中でこの二つのポイントに関する問題意識を膨らませたのですが、その答えを丸山眞男の著作の中に発見しました。上記の二つのポイントに即していえば、第一のポイント(「過去を水に流す」という日本的な受け止め)は、古代から今日まで変わらない日本人のユニークな「時間」の理解(受け止め)のあり方に原因があり、第二のポイント(「皇国史観」)は、同じく昔から連綿と続く日本人独特の「政治(支配・被支配)」の理解のあり方に原因があると思います。
 「時間」は「過去︱現在︱未来」から成り、「歴史」はいわばその総合です。ところが、日本人は古来、「時間」を主観的に「つぎつぎとなりゆくいきほい」(丸山)と捉えるのです(歴史意識の「執拗低音」)。つまり、日本人の関心は常に「いま(現在)」に集中し、その「いま」が「過去」からどのように由来し、「未来」にどのようにつながり、かかわっていくかということについて「無関心」です。日本人は「主観」の世界で生きており、「客観」の世界、つまり歴史の中で自己を対象として捉える意識はありません。「歴史的民」である中国人にとって、歴史に汚名を残すことは最大の屈辱です。日本でも「歴史に名を残す」ことは誉れとされますが、この言葉は肯定的な意味合いで使われる表現です。都合の悪い「過去を水に流す」のは「いまがすべて」だからです。ちなみに、わたしの理解では、日本人のこの時間の捉え方を代表するのが俳句です。俳句は、「いま」という瞬間の自己の感情・思いを切り取って一七文字で表現する文学であり、日本独特のものです。日本の主流は叙情詩であり、叙事詩が存在しないのも同じ理由だと思います。
 「侵略戦争はなかった」「従軍慰安婦問題・強制連行問題は史実と反する」等々は皇国史観の典型的な表れです。なぜ史実にあらがうのか。〝無謬の天皇に直属する皇軍が間違いを犯すことはあり得ない〟というのがかれらの出発点だからです。無謬であるべき天皇に累が及ぶ指摘・批判は門前払いしなければ気が済まないのです。「結論先にありき」です。国を挙げた無責任体系ともいえます。
 その根っこにある原因は、欧州及び中国では「政治」を上から下に対する「統治(ガヴァン)」と観念するのに対して、日本では下から上に対して「ささげる」行為(丸山)と観念すること(「お上」意識。政治意識の執拗低音)に由来します。「統治」は(被治者に対する)責任を伴います。しかし、「ささげる」は一方的行為であり、治者(天皇)と限りなく一体化していく行為です。〝その行為について責任を云々する〟余地はありません。
 以上から、〝わたしたちが歴史認識を正すためには「過去︱現在︱未来」を総合的に捉える世界標準をわがものにしなければならず、「皇国史観」を清算するためには「お上」意識を払拭しなければならない〟というのがわたしの結論です。

台湾・領土問題

 台湾問題および領土問題に関しては、日中共同声明と日中平和友好条約で両国政府が約束したことおよびその交渉過程で両国首脳が合意したこと(「棚上げ」合意)を、日本側が遵守しないことに共通の原因があります。「合意は守られなければならない」(pacta sunt servanda)ということは、欧州に起源を持つ国際法の根本原則です。中国も、主観が支配した伝統的な「人治」から客観が支配する現代的な「法治」への移行を目指しており、その一環として国際法重視を鮮明にしています。今日の世界では、「法治」あるいは「法の支配」は統治における普遍的原則(中国流表現によれば「人類共通の原則」)として確立したと言えるでしょう。ところが、日本政府、日本社会全体が声明・条約の存在、ましてやその法的拘束力すら忘れてしまっているのが実情です。中国に対しては「法の支配」を普遍的な価値として振りかざすのに、当の本人は「法の支配」からかけ離れた言動をして、しかも恬として恥じないのです。その原因として、わたしが考えるのは次の諸点です。
 第一、日本には「法治」「法の支配」の観念が内発的に生まれ、育つ歴史をもたなかったこと。鎌倉時代(御成敗式目)は例外です。
 第二、日本が国際社会の新参者であり、しかも参入した時代は「弱肉強食」の帝国主義最盛期だったこと。また、第二次大戦後から今日にかけては、「米ソ冷戦」、「アメリカの一極支配」に組み込まれたこと。したがって、国際政治は「弱肉強食」「ゼロ・サム」が支配するという見方が支配し、「法治」「法の支配」を軽んじることにつながったと言えるのではないでしょうか。
 第三、アメリカ的「天動説」国際観と日本的「天動説」国際観の親近性。「天動説」国際観の最大の特徴は、対外関係で問題が起こった時に、「自分は常に正しく、悪いのは常に相手だ」と一方的に決めつけることです。旧大陸(欧州)と決別して新大陸で建国したアメリカは、自らを「丘の上の町」とみなし、みずからが体現している普遍的価値によって世界を作り替える使命・責任があると考える天動説です。日本は古来、中国の「大中華」世界に対抗して、日本を頂点とする「小中華」世界を構想し、朝鮮半島を支配する夢をたくましくしました。明治維新以後は「脱亜入欧」によって欧米列強に伍する地位に登りつめようとし、第二次大戦敗戦後はアメリカと一体化することで、みずからが世界の中心に位置するという「天動説」国際観を満足させてきたのです。
 第四、「日本のお手本」であるアメリカが国際法を対外政策遂行上の手段と見なしている(自国の利益に合致する時は大上段に振りかざし、自国の利益実現に資さない時は無視、違反する)こと。アメリカは国内では人権・デモクラシー・法の支配等の「普遍的価値」の実現を曲がりなりにも目指しているとしても、対外的にはゼロ・サムのパワー・ポリティックスに凝り固まっており、人権・デモクラシー・法の支配はせいぜい「隠れ蓑」にしかすぎず、「二重基準」が横行することは公知の事実です。もともと「法治」「法の支配」が根付いていない日本がアメリカを「真似る」のは当然です。
 しかし、より根源的な、日本特有の原因があると思います。それは普遍的な基準(神の摂理、真理、正義、歴史の法則、法の支配、尊厳等々)が倫理意識(正邪・善悪を判断する意識の働き)を支配する欧州・中国と異なり、日本人の倫理意識を支配してきたのは動機が純粋であるか否か、「きよき心」(丸山)に出たものであるか否か、という主観的基準であるということです(倫理意識の執拗低音)。とくに所属する集団に対する無私の献身は高く評価されます。最近の例でいえば、森友・加計両学園問題における文部科学省の組織を挙げた隠蔽工作が典型です。つまり安倍首相による両学園に対する「便宜供与」は違法行為ですから、「法の支配」を重んじる限り、安倍首相の犯罪をかばい立てすることなどあり得ないはずです。しかし、文科省は「法の支配」より日本政府(所属集団)のトップ(安倍首相)に対する忠誠(献身)をより重視したのです。
 ちなみに、歴史意識、政治意識、倫理意識の執拗低音に共通するのは「主観」の働きが何よりも重んじられることです。「いまがすべて」(歴史意識)、「ささげる」(政治意識)、「きよき心」(倫理意識)のいずれもそうです。これに対して中国では春秋戦国の時代から「天」「仁」「道」「博愛」などの普遍を体する思想(ただし、中国語の「普遍」には英語のuniversity, universalを訳した日本語の「普遍」という意味合いはなく、「広範囲に存在する」「共通性を有する」という意味で使われる)が唱えられ、それらの思想によって人間のあり方を規律することが志向されました。古代欧州ではギリシャ哲学、ローマ法そしてキリスト教が普遍の思想の源泉でした。ルネッサンス、宗教改革を通じて近代的「個」の意識が確立するとともに、近代的「個」(という存在)は普遍の思想に規律されるという意識が広く受け入れられました。
 日本は古代では中国思想を、また明治維新前後には西欧思想を受容しました。しかし、朝鮮半島(対中国)および植民地化された地域(対帝国主義列強)と異なり、その受容は主体的、選択的に行われました。それを可能にした条件としては、日本が地理的に大陸からほどよい程度に離れていたこと、また、有史以来の民族的固定性などが指摘されます。つまり、執拗低音が普遍(の思想)に圧倒されて消えてしまうのではなく、普遍(の思想)が執拗低音によって変型され、無害化されて取り込まれました。日本は未開民族・未開社会のメンタリティを現代まで持続している希有な存在であるとも言えるのではないでしょうか。しかし、普遍という「鏡」・モノサシをわがものにしない限り、わたしたちはいつまで経っても普遍に照らしてみずからを客観視する(=「個」を確立する)ことはできず、普遍によってみずからを規律することもできません。その結果、いつまでも世界の「異端児」であり続けることになります(「それこそが日本の誇りだ」と居直るのが皇国史観)。「歴史認識問題」台湾問題」「領土問題」はすべてここに起因することを考える時、「普遍(の思想)」をわがものにすることはわたしたちにとって不可欠な課題であると思うのですが、どうでしょうか。
 しかし、次のことははっきりさせておかなければなりません。すなわち、「個」を確立すること、普遍によってみずからを規律するということは、みずからの固有性・個体性を否定することを意味するものではありません。まったく逆です。むしろ、みずからの固有性・個体性を改めて認識することを可能にするのです。

展望――問題解決の可能性

 中国が日中関係にかかわる問題として指摘するのは、①過去を反省しない(歴史認識問題)、②「一つの中国」原則を守らない(台湾問題)、③尖閣(釣魚島)「棚上げ」合意を遵守しない(領土問題)、④中国を敵視する(国際関係準則問題)、⑤アメリカの対中対決政策にのめり込んでいる(同盟問題)、以上五点の日本側の問題でした。これまでの整理からわかるように、中国側の指摘はもっともであり、現在の日中関係が最悪な状態に陥っている原因は日本側にあるといわなければなりません。要するに、日本が日中共同声明及び日中平和友好条約で中国と約束したことをキチンと守っていれば、日中関係が悪化することはないのです。したがって、問題解決は簡単です。日本が声明と条約を遵守する。これに尽きる。これがわたしの答です。
 ただし、上で扱った執拗低音にかかわる問題については、みなさんにとってはあまりなじみがないテーマだと思いますので、もう少し補足します。実は、わたしが二〇二〇年に出版した『日本政治の病理』(三一書房)という本は、執拗低音こそが日本政治の病理そのものであること、わたしたちが執拗低音の働きを主体的に克服しない限り日本政治の病理は解決しないことを明らかにすることに執筆の狙い・目的がありました。わたしにとって幸いなことに、丸山眞男はつとに問題克服のカギとして日本人の思想的「開国」という提起をしています。わたしは丸山の提起を足がかりに、精神的「開国」、物理的「開国」そして強制的「開国」の三つの「開国」の可能性を考えました。
 精神的「開国」とは普遍(の思想)をわがものにする主体的努力を通じて「内なる」開国を実現することです。物理的「開国」とは、広く移民を受け入れる政策に転換して多民族国家に生まれ変わることで精神的「鎖国」を物理的に打ち破ることです。強制的「開国」とは、多くの途上国が欧州列強によって侵略されて植民地にされ、欧州文明による「強制的洗礼」を受けた場合が当てはまります。日本についていえば、自民党右派勢力が政治を支配してアメリカの覇権にまで挑戦し、アメリカをはじめとする世界中から袋叩きの目に遭って「一九四五年の再現」に遭遇して開国を強いられるケースです。
 わたしはまたこの本で、日中関係に限らす、二一世紀国際社会と日本がかかわっていくうえで直面する課題を整理しました。「二一世紀国際社会について正確な認識を持つ」という問題です。具体的には、国際観、「脅威」観そして国家観を正すことがわたしたちに求められていることを提起し、平和憲法・九条を今日的に活かすために、憲法違反の自衛隊を、平和執行(憲章第七章)任務を担う国際機関特に国際連合にそっくり移管すること(憲法違反の解消と「国際貢献」の両立)を提起しました。
 「天動説」国際観については前にも触れました。国家主権の対等平等、内政不干渉、相互尊重、紛争の平和的解決など、国連憲章が定める国際関係の基本原則のもとでは、大小、強弱、貧富、体制の違いにかかわらず、主権国家は互いに対等平等であり、平和共存が義務づけられています。「天動説」国際観が垂直(支配・被支配)の国家関係を表すこととの対比でいえば、二一世紀の国家関係は水平的であることを最大の特徴としており、ウィン・ウィンの脱パワー・ポリティックス思想を体現する「地動説」国際観が支配する世界であるとも言えます。ゼロ・サムのパワー・ポリティックス思想の産物である「天動説」国際観は、二一世紀では歴史の屑箱に放り込まれる運命にあります。
 「中国脅威論」をはじめとする様々な脅威論はすべてパワー・ポリティックス思想、「・動説」国際観の産物です。アメリカの歴代政権(および追随する日本政府)がパワー・ポリティックス思想にしがみついていること、これに対して習近平・中国が明確に打ち出しているのはウィン・ウィンを強調する脱パワー・ポリティックス思想・「地動説」国際観であることを思い出せば、アメリカと中国のいずれが正しい国際観を代表しているかは自明です。その中国が「脅威」であると主張しなければ気が済まない政府・自民党、マス・メディアさらには世論の大勢がいかに異常であるかがわかるというものです。

(『思想運動』1080号 2022年9月1日号)