開講講座 報告= 鄭栄桓さん(明治学院大学准教授)
『帝国の慰安婦』事態と日本の責任
日本軍性奴隷制度が射影する日本人民の弱点


 二〇一四年、朴裕河著『帝国の慰安婦』が出版された。彼女が「試みたことは『朝鮮人慰安婦』として声を上げた女性たちの声にひたすら耳を澄ませることでした。」と言う。しかし、ナヌムの家の元被害者たち九人は、名誉を傷つけられたと民事上の損害賠償と出版禁止と接近禁止を求めて提訴し、かつ著者を名誉棄損罪で刑事告発した。
 ところがその一方で日本の言論界出版界は『帝国の慰安婦』を高く評価した。そして二〇一五年十一月に韓国の検察が著者を名誉棄損罪で在宅起訴するや日本のメディアは右左関係なく言論の自由への弾圧と非難し、日米の学者、ジャーナリストら五四名が朴裕河氏の起訴に対する抗議声明を発表した。
 しかもそこには、高橋源一郎、杉田敦、上野千鶴子、鎌田慧などいずれも反原発運動や反戦争法、民主主義、立憲主義を守れとの運動の中で目にする諸氏が中心になっていた。『帝国の慰安婦』とはいかなる書物か。そして、なぜ日本の「良心的」知識人がこの本を絶賛するのか。今期HOWS開講講座はこのテーマについて、鄭栄桓氏の講演を聞き、会場での議論を行なった(五月十四日)。その要旨を以下に報告する。
 まず、鄭氏は日本内で『帝国の慰安婦』を支持する緒論を引用し、誤読か否かだけでなく作者の心づもりまでが論争になるのが不思議な特徴であると指摘し、不明瞭な叙述や概念の拡大が、読み手にさまざまな矛盾する解釈を許している。ここにこの著作自体の大きな欠陥があることを強調した。さらに「慰安婦は…」、「韓国は…」、「日本は…」とくくり、そのなかにはいろいろあるのだからと、その単語の範疇を拡大しておいて、自らの政治的主張を、歴史的資料や恣意的曲解や犠牲者の言葉尻を利用する。そして恣意的に犠牲者と軍人や国家の間に「愛国」的感情や「同志意識」「同志的関係」の存在を裏付けようとしていることを実例を列挙して丁寧に実証した。
 しかも、朴氏はその一方で、「慰安婦」などは存在しなかったと主張する歴史修正主義者たちを批判する態度を示しつつ、一義的責任を「業者」とすることで、軍や国家責任を霧散させ、しかも「(かれらの)気持ちと行動を受け入れるかどうかの問題は、そのような曖昧さを引き受けるかどうかの問題でもある。」と結局は「限られた条件下で慰安婦問題に努力した」のだと官僚や政治家の立場を代弁し、韓国挺身隊問題対策協議会やナヌムの家の犠牲者たちを孤立させ、まるで問題解決を阻んでいる主犯であるかのように捏造する。それがために中国、東南アジア、オランダとの性奴隷犠牲者とは質が違うと「朝鮮人慰安婦」を切り離し、作り出した用語が「帝国の慰安婦」である。
 つまり朴氏が「ひたすら耳を澄ませた」のは韓国政治家や官僚、大日本帝国やその兵士たちの声なのである。
 鄭氏は、朴氏のこの著作が出版された当初、このような決定的欠陥を持つ代物が、それほど大きな影響力を持つとは考えなかったという。しかし、天皇を元首とする大日本帝国とそれに切れ目なく連なる今日の日本の戦争責任を免罪し、韓国内の問題に、転嫁しているにもかかわらず、冒頭にも挙げたような日本の「良心的」知識人と目される諸氏からは圧倒的に称賛され、それが反原発や、反戦争法、反改憲で危機感を示した「良心的」世論からも支持を受けた。その思想的土壌にこそ注目することが重要だと鄭氏は強調する。
 それは日本人民の中に七〇年かけて浸透してきた「日本は戦争に加わらず平和と繁栄の途を歩んできた」という「戦後」認識(それ故に、その「戦後」から逸脱しようとする「安倍」を批判している)とぴたりと一致するからであり、また朴氏も日本が「戦争責任・植民地支配に向き合ってきた」として描くことで、その「戦後」認識を持つ日本リベラリスト達を意図的に魅了しているかのようにすら見える。
 本質は「日本社会の知的頽廃の問題」であり、ここに至ったのはなぜかを再検討することが急務だと締めくくった。「朝鮮人慰安婦問題」は一事例のように見えるが、日本の戦争責任を、そして現在の政治的にも社会的にも出鱈目な状況にたどり着いてしまった思想的原因を鋭くついている。これは同時に憲法をすら具体的に破壊しようとする現状と、それを許すに至ってしまったわれわれ抵抗側の歴史認識と思想の決定的弱点、「七〇年談話」「日韓合意」「朝鮮敵視政策」「在沖米軍基地」を許容する思潮との関係を鋭く射影している極めて重要な課題を考えさせる、有意義な学習会だった。 【藤原 晃】

(『思想運動』981号 2016年6月1日号)