HOWS講座 『忘却のための「和解」』の著者・鄭栄桓さんを囲んで討論
朴裕河の『帝国の慰安婦』を称賛する日本の知識人・リベラル派の思想的頽廃を撃つ
朴裕河著『帝国の慰安婦』が説く、「慰安婦」問題の「和解」とは何なのか。また、本書を称賛する日本社会、とりわけ「リベラル」を自任する知識人やメディアをどう考えればいいのか。著書『忘却のための「和解」』で、本書を検証・批判し、これを受容する日本社会の頽廃状況を指摘する鄭栄桓さんを講師に招き、五月十四日、HOWS講座を開催した。鄭さんの報告全文は、姉妹誌『社会評論』一八五号に掲載されている。ここでは、報告後の講座参加者との討論を掲載する。『帝国の慰安婦』をめぐり映しだされた日本の知識人・人民の思想的問題の根源はどこにあるのか、掘り下げる対話をお読みいただきたい。 【編集部】
Q1「妥協」があるとすれば
「慰安婦」問題の「妥協」がもしあるとすれば、どのような条件なら可能なのか。被害者の生存中には解決不可能と思われるような現状は変えられるのか。
鄭 こういう問いに対する答えのひとつが『帝国の慰安婦』(以下『帝国』)です。どういう妥協が可能かという問いを出すと『帝国』のようなことになっていく。いったい被害者の主張を変えることができるのでしょうか。『帝国』を読みながら思ったのは、やはりこの問題が解決したと言える人は、被害者しかいない。
第三者主導の解決ということは基本的にできないことですし、あってはならないことです。被害者がどういう要求を持っているかが大事で、被害者に何の断りもなく「合意」が成立するのは不自然です。
日韓関係を停滞させたくないと考えている人には、被害者の要求がわずらわしかった、けれど、被害者の方々の主張を正面から否定するのは難しい。さすがにそれはできないということで、その身代わりに、挺隊協が攻撃されたのだと思います。被害者を操って、本当の歴史や声を隠蔽しているんだというように。日本政府が事実を認め責任を取る、歴史教育をする、国家賠償をするというのが真の解決だという水曜デモの主張は、認めたくないわけです。だから『帝国』の主張は、記憶を隠蔽しようとする。この本は証言者たちの声を聴いているようにみえて聴いていない。本当の被害者たちの声は、朴さんだけがわかるかのような書き方をしている。
「被害者の生存中には解決不能だと思われる」と言われますが、日本政府が日韓条約の解釈を修正して、第二次世界大戦や植民地支配の犯罪性を認める決断をすれば現実は変わってきます。それが何よりも確かな解決への道であって、それはできないことではないのです。難しい、できないことだという認識が広がっていますが、それは官僚の官僚制の論理、行政の論理に屈服することです。本当は政治の選択、決断によって変えることができるのだけれど、変えないという選択をしているわけです。日本の政治はもう変わることはないのだ、日本側は変えることはないのだ、という条件として考えられてしまうところにすり替えがあるようにわたしは思っています。
わたしは証言集や被害者の方々の発言を通じて知りましたが、今回の一二・二八「合意」に被害者の人たちの気持ちの底には、すでに亡くなった方々への思いがあるのではないか。その人たちを思い浮かべながらその中で自分たちがどういう判断をするのかを考えておられるんだなと感じました。解決したといえるのは被害者だけですが、解決せずに亡くなられた方々にとってはもう取り返しがつかない、それでも毎週水曜日にデモに出てきている方々は、その中で、自分たちが何を言うべきなのかを考えておられるのではないか。
Q2 論争の対応
鄭さんは、ブログで『帝国』批判をずっと前から展開されています。それに対して朴さんとそのフォロワーがセンセーショナルなことばを使って反論する。そのようなSNSでの論争をどう考えておられますか。また鄭さんは『忘却のための「和解」』という本も出されました。三月二十八日には東京大学で『帝国』をめぐっての研究集会があって『帝国』を擁護する側、批判する側が一堂に会しての論争がありました。それ以降なんとなく、朴氏を擁護する人が少なくなってきたように感じます。
鄭 論争にどうやって対応するのかということですね。まず三月二十八日の東京大学における『帝国の慰安婦』の評価をめぐる集会について簡単に説明します。この二年間、『帝国』はマスコミでは絶賛一色で、批判はわたしや一部の人のものだけでした。しかもネット上のブログが主で、全国紙には、基本的にわたしたちの批判は載りませんでした。裁判が起きたあとも、ナヌムの家側の声は載らず、朴さんのインタビューは大きく掲載され、朴さんの代弁を全国紙がしているという状況が続いたのです。わたしが本を書き、金富子さんやいろいろな方々も批判を書いて、最近になってそれが表に出るようになりました。そうすると東京大学の外村大さんという方が、批判する側と擁護する側とが一堂に会して、一度研究会をしたらどうかと、提案をしてきたのです。この会には批判側としては、わたしや梁澄子さん、吉見義明さんや小野沢あかねさんが登壇して、擁護側は、西成彦さん、岩崎稔さん、浅野豊美さんをはじめ、上野千鶴子さんとか、いろいろな有名人が来ました。この会以後、絶賛ばかりという状況から、絶賛していた人が黙る、朴裕河という舟から降りたがっている状況に変わりつつあるのを感じます。
基本的にこれまでの朴さんのやり方は、自分は被害者であるというイメージを作り続けることです。これからは、わたしのような批判にしても、いろいろ考えながらやった方がいいと思っています。わたしは本も出して、ひとまず言うことはまとめたので、とにかくそれを読んでほしい。最近の朴さんの論争スタイルは、ご自身ではあんまり反論を書かず、反論している人を連れてきて、こんな鄭栄桓批判があるぞ、と出してくる。その人が撃破されると、別の人を連れてきて、こんな人もいるぞ、みたいなやり方をしてくる。なので、わたしとしてはいちいち相手にせずに慎重に対応するのがいいと思っています。とにかく、朴さんには言いたいことがあるなら、わたしの本も含めて、まとめてちゃんと反論していただきたい。それに対しては必要があればわたしも対応します。この本をめぐって話ができるという、著者にとってはありがたい状況があるはずなのに、実際には『帝国』そのものの話は驚くほどされていない。
Q3 何のための「和解」か
今年五月二十七日に、オバマ米大統領が広島に来て、広島に謝らないのですけれども、いわば「和解色」があります。昨年末、日韓「合意」もそうで、アメリカを中心にして日本、韓国の三国がつくりだしているのは、「国家の和解カルテル」とでもいうようなものではないかという気がする。これにどう対抗していったらいいのか。
鄭 オバマの広島訪問演説は、本当に悪しき「和解」の典型だなと思います。日韓「合意」を前提とすべきなのか、破棄か、無効化か、解決運動にかかわってこられた方を含めていま、いろいろな議論が出ています。これで韓国側、挺隊協が、本当に「合意」を破棄してしまったら、もっと日韓関係が悪くなってしまうのではないかと、そうしたら、「慰安婦」問題について日本の社会の中で受け入れられなくなってしまうという主張があります。
しかし、わたしは、日韓関係をよくするためにはどういう合意をすべきか、という考え方自体がおかしいと思います。妥協点をさぐっていくという話になると、結局『帝国』が解決策になるのです。だけどこの問題を考える際には、被害が存在していて、その被害克服や、日本の加害の事実をどうやって伝えていくのかという基本的なところは、ゆるがすわけにいかないのです。それについて、日韓「合意」がどの程度資するものなのか。
Q4 リベラルの問題①
『帝国の慰安婦』を読んで、何を言っているのかさっぱり分からなかったのと、許しがたい表現が至るところにある。両方ですごいストレス、感じます。たとえば、表紙の裏に、「大日本帝国植民地の女性として、帝国軍人を慰安し続けた」と書いています。この文章の中でみてくると、あちこち、慰安婦にされていた女性たちを日本の侵略軍の加害者の共犯者だと書いて、まさに共犯者扱いしています。フィリピンとかインドネシアの女性からすれば、日本軍の侵略を支えた共犯者となるわけです。この本の大きな問題は、①被害者を加害者にしたこと、②日本に法的責任はないということ、③戦後補償はすでにしたということ、④解決を阻むのは挺隊協であるいうこと、この四点です。さらに大きな問題は、右翼あるいは日本政府にとってすごく都合のよい本を、なんでいわゆるリベラルといわれている人たちは、絶賛しつつ受け入れたのかということです。この『帝国』は『朝日新聞』が吉田証言は誤りであったと謝罪した二〇一四年八月のあと、三か月後に出ているのです。これは、『朝日新聞』の安倍に対する謝罪なのではないかなと映ったのです。もしこの本が『朝日新聞』ではなくて『読売新聞』から出ていたら、リベラルの人は、そんなに簡単に誉めないと思います。抗議声明に名を連ねたリベラルの人たちは多分、『帝国』を読んでいないのではないか。読んでいないとしたら無責任で、読んでいたら無能です。一方鄭さんはよく短期間にこの『忘却のための「和解」』をまとめられたなと感心をしました。この問題が投げかけている深刻さというのは、まさに今、日本の社会が抱え込んでいる深刻さなんじゃないかなということをすごく思います。
鄭 この本を誉めるような人びとを何と呼べばいいか悩みました。『読売新聞』や、『産経新聞』には執筆しないような知識人たちの集団。ひとまずカッコ付きで「リベラル」といい、注釈で少し説明をしたのですが、いま自称リベラルの人たちは、自分は自由主義者であるといっているわけではないようです。いろいろな人が自分はリベラルだと言いますが、民主党、民進党支持者とはちょっと違うし、共産党員もリベラルと称する人もいます。不思議な現象だと思っています。講座の最後で、わたしは九〇年代以降の歴史の再検証を提案しました。戦後革新が、どういうふうな形で解体していったのかを考えないと、九〇年代以降のいまの、反安倍、戦争反対といっている側の主流の言説の登場を歴史的に分析できないのではないかと思うのです。そういう意味で九五年の村山政権による「国民基金」の創設は、「慰安婦」問題だけではなくて、いわば社会党という、戦後革新の一角を占めていた勢力が、理念的に崩壊した瞬間だと思うのです。
「慰安婦」問題というのは、さまざまな社会問題のひとつではなくて、実は革新勢力の理念を問う重要なメルクマールの一つだった。戦後の日本の中で、革新が戦後自民党政治を批判する基盤としたいろいろな理念や主張があった。
たとえば、憲法九条をちゃんと守れ、日韓条約反対、日米安保反対、米軍基地反対、平和主義の主張とか、第二次世界大戦における天皇の戦争責任追及とかの主張があった。
村山政権はそれを大幅に修正して、右に舵を切ったと思います。そうなってくるとやはり、戦後認識も修正せざるを得ない。戦後の自民党政治を肯定するようになる。例えば、小泉政権が登場してきた時に新自由主義批判が盛り上がった。しかしその論理は小泉は戦後自民党政治が安定的に作った日本を壊そうとしているというものになる。保守側だけじゃなくて、昔、戦後革新系列だった人たちも、例えば昔の自民党は多様だったとかいう形で、八〇年代までの「戦後」を誉めるようになる。こうした「戦後」擁護の小泉批判という論理に倚りかかった。その中で、日本は戦後、平和憲法のおかげで一度も戦争しなかった平和国家だったという主張が大きくなった。現在の安倍政権に対しても、平和国家を安倍は壊すのか、という批判の理屈になる。確かに安倍政権は一方で、「戦後」のあるシステムを壊そうとしているのですけれども、果たしてそれだけなのか。
かつて戦後革新勢力は、自民党が作り上げたシステムをずっと批判してきた。日本は平和国家ではなく、平和憲法も理念を実現したものでもない、それを実現させよと批判した。だからもっとも良質な「革新」とは、戦後批判だった。だけど、九〇年代以降にたとえば天皇の戦争責任の追及という運動は昭和天皇の死去を前後した巨大な社会的圧力によって、総くずれになっていく。憲法九条の戦力放棄についても「平和基本法」のような現実路線が出てくる。「慰安婦」問題への村山政権の対応はその帰結です。だからこそ、現代史・同時代史分析がないといけないなと思っています。
Q5 リベラルの問題②
「和解という名の暴力」が日本で受け容れられるのは、「理性的な民主主義者を自任する名誉感情と旧宗主国国民としての国民的特権のどちらも手放したくない」日本のリベラルの「秘められた欲望に」合致するからだという徐京植さんのことばは、日本のリベラルを自任する人々、また、今の活動家のなかにも多く存在する運動側の決定的弱点を表現していると感じました。それが、安倍の七〇年談話が評価される思考と共通しているのではないでしょうか。元をただせば、あらゆる分野で日本の加害責任の追及と反省の不徹底が七〇年間積み重ねた結果とも感じました。
たとえば高橋源一郎氏とか、かれらの見方と考え方、それが国会前の盛り上がりを、若い人が出てきたことをもろ手を挙げてよしとするやり方に、ものすごく限界を感じてきました。あの年代の人たちが、ただもろ手を挙げて賛成するだけでいいのかという思いは、日頃の労働組合にも関連していて、労働組合のいろいろな議論のあり方とも重なり、それは運動の方針にも反映し、とにかく現状においては、これしかしょうがないんだから、がまんしましょう、本質的に何が問題かという議論はさておきましょう、という態度は「慰安婦」問題とも、関係あるなと思いました。
鄭 「安倍七〇年談話」の評価が「リベラル」界隈でも比較的高いことと、『帝国』の評価はつながっています。ただ、わたしは『帝国』という本が、こういう思想を作り出して広めたとは考えていません。朴さんというのは、日本でどういう思想が受けているかということがわかる人だと思います。だから『帝国』が先にあって、こういう思想が作られたのではなくて、先にそういう思想があって、それに応じて『帝国』が書かれていると考えた方がいいと思っています。戦後七〇年談話の文章をみると、おわびにしても、これまでに日本がいかにおわびをしてきたか、を語っています。わたしがあやまりますと言わずに、戦後の反省の歴史を語るということで、いわば、九〇年代以降の村山談話的なものも取り込んでいく、戦後歴史認識の収斂というのがあると思います。
Q6 知の頽廃
今日の『帝国』の議論を聞きながら思ったのは、たぶんいわゆるリベラルといわれるような人たちは「フランス現代思想」が好きだと思います。フランス現代思想の文章というのは、なぜかやまがっこ(〈 〉)が多くて、わたしは『帝国』を読んではいないのですけれども、ずさんで思い付きを並べて、長文になるような論理展開がはやったときの「フランス現代思想」と印象としては共通しています。今回の話でいえば、「慰安婦」の問題をずさんに扱うように、都合のいいところだけ取り上げて、むちゃくちゃな解釈をしているという、『「知」の欺瞞』を読んだときのことを思い出したので、つながりがあるのかな、と思ったのですがいかがでしょうか。
鄭 『帝国の慰安婦』事態を、『「知」の欺瞞』でソーカル(人文学者のでたらめな数式引用を批判した人物の名前)が問題にしたような学術界のスキャンダル問題ともみなせるというご意見だと思います。わたしも似たような側面があると思いますが、違いもあると思います。少し話がそれますが、七三一部隊の研究をされ、家永裁判にも関わっておられた松村高夫さんからわたしの本の感想をいただきました。
そこで、朴裕河氏のやり方は秦郁彦氏と似ていると指摘しておられました。秦氏は七三一部隊裁判で弁護側証人として登場した人です。そこでの秦氏の歴史修正のやり方と非常に似ていると。実証性を装いながらも、少しずつ事実を捻じ曲げていく。戦争加害の問題について、こういうニセ実証主義的な言説が出るのは法則的ですらあるというふうにおっしゃっていて、その通りだなと思いました。だから、ソーカル事件で暴露されたようなフランス現代思想の書き手たちが幾何学とか数学とか、物理学とかの用語をはったりをかますために使うということにとどまらず、侵略国家であった日本の中で、加害行為や、加害責任を認めたり追及することへの強い抑圧がある。だからこそ加害行為を免責するような主張がさまざまな衣装をまとってあらわれてくる。歴史の名を騙るような修正主義が出てきやすい特徴があるのではないでしょうか。 (終)
(『思想運動』985号 2016年8月1日・15日号)
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