連載 日本の戦後補償 ── 東南アジアの歴史を通じて考える ①
日本軍が行なった強制的徴発の実態     倉沢愛子(慶応義塾大学名誉教授) 

 日本は、侵略した東南アジア各国の人びとにどのような甚大な被害を与えてきたのか。敗戦後、補償は行なったのか。そうした重要な歴史認識にかかわる事実を多くの日本人が教えられないまま社会に出る。「日本の戦後補償の問題点――東南アジアの歴史をつうじて考える」と題して行なわれたHOWS講座での倉沢愛子さんの報告は、そうした日本社会の「当たり前」を根底から問いただす。ご本人が講演内容に加筆・修正したものを連載する。【編集部】

 日本国は「大東亜」戦争期に、東南アジア諸国を占領統治、あるいは傀儡政権を設立して背後から操るなどして支配した。そして、「ロームシャ」(労務者)、兵補、従軍「慰安婦」などの形で、多くのアジアの人びとを日本軍の利益のために徴発し、働かせた。日本政府は戦後、一九五〇年代に東南アジアの四か国(インドネシア、南ヴェトナム、フィリピン、ビルマ)に支払った賠償などで、問題はすべて解決したという立場をとっている。しかし、被害者に対する個人補償は一切行なわれていない。

占領支配の形態

 日本は東南アジアの全域を支配下に置いたが、支配の形態にはいろいろな型があった。日本がもっとも直接的に権力を行使した形態は、軍政と呼ばれる、軍が直接に行政を行なうものである。これは現在のインドネシア、当時の英領マラヤ、英領ボルネオ、シンガポール、ビルマ、フィリピンに対して行なわれた統治形態である。
 東南アジアのうち、フランス領であったインドシナ、いまのヴェトナム、ラオス、カンボジアの三国では日仏共同統治が行なわれた。この戦争の一番の目的は、東南アジアからの資源の獲得にあったのだが、日本軍は表向きは「この戦争は、アジアの解放のためにヨーロッパの支配者を倒すのだ」と言っていた。にもかかわらず――このあたりが日本の戦争の論理で一番勝手なところだと思うのだが――フランス領インドシナに対しては、それを行なっていない。
 つまり、フランスが、ヴェトナム、ラオス、カンボジアを支配しているわけだが、その論理から言えば、フランスを攻めて三国を解放しなければならない。軍政を敷いたインドネシアとかマラヤでは、それぞれオランダやイギリスなど旧植民地勢力を倒している。
 フランス領インドシナに対して、それをしなかったのは何故か。それは、当時フランスはナチス・ドイツの支配下に置かれており、ドイツの傀儡政権であったので(フランスは一九四二年十一月から全土が占領された。当時はヴィシー政権)、枢軸国寄りの国だから攻撃しない。その国の下でアジアの国が植民地にされてはいるが、その解放のために占領したり軍政を敷いたりする対象にしない。しかし、戦略的に重要な地域だから、「平和的」に日本軍が進駐したのだ。
 つまり、戦闘によってではなく、協定によってフランス政府の同意を得て日本軍が進駐して基地をつくった。だから、歴史の用語では「北部仏印進駐」とか「南部仏印進駐」と言われる。戦争の最後の頃まで、そういう形でフランスの植民地権力を認めると同時に、日本軍はかなりの圧力をかけてコメを徴発したり、労働力を徴発したりしていたのである。しかし、一九四四年にフランス本国が連合軍によってドイツから解放され、フランスが連合国側に戻ったとたん、日本軍はヴェトナム、ラオス、カンボジアのフランス軍を武力的に排除して、敗戦までの最後の数か月間はここを完全に支配した。
 タイは東南アジアで唯一の独立国であった。ここは日本が攻撃する大義名分がないので、弱いタイ政府に圧力をかけて、これもカッコつきだが「平和的」に日本軍を進駐させ、日本の同盟国にしてしまう。だから、タイは途中で英米蘭、つまり連合国に宣戦布告することを日本に強いられる。形の上では完全に日本側についたわけだ。
 ただ、タイは外交的に巧みな国で、日本の敗戦が濃厚になると、このまま日本についていると危ないと察知する。しかし、すぐに日本と手を切ったら大変なことになるので、日本と協力している政治家とは別の政治家たちが、もし連合軍が勝って帰ってきた場合にもタイが生き残れるように、ちゃんと手配をしていた。だからタイは、日本についたにもかかわらず、敗戦国扱いされなかった。
 いろいろな事情があるので、東南アジアの国ぐにでの日本軍の関わり方には違いがある。しかし一様に言えることは、日本が軍隊を進駐させて、現地で資源や労働力その他の人的資源を徴発していたということだ。

1、「ロームシャ」を知っていますか

 「ロームシャ」とは、カタカナで書いているが、元々は漢字の「労務者」のことだ。いまでは使わなくなってしまったが、当時は、日雇い労働に従事する労働者を、労務者とか、日雇い労務者と言った。その言葉を、日本軍は東南アジア各地でそのまま使っている。現地の人びとも「ロームシャにされた」という言い方をしている。
 インドネシアでは「ロームシャ」という言葉は、解放後もずっと残っている。たとえば、日本の占領期の歴史を語るときに「ロームシャとして連れて行かれた」「ロームシャが何人徴発された」などの言い方が、インドネシア語の本に出てくるし、なんと、インドネシア語の辞書にも出てくる。インドネシアの『広辞苑』に当たる大きな辞書には、「日本軍によって強制的に徴発された労働者のこと」と出ている。そこから転じて、動詞に使うことまである。つまり、無理やりに、意思に反して働かされることを「ロームシャされる」とインドネシア語では言うのだ。そういう形で、この言葉はインドネシア社会に、いまでも残っているのだ。
 わたしは一九八〇年から一年間インドネシアの村落に滞在して、日本軍の占領期に何が起こったのかの調査を行なった。その頃は、いまから約三〇年前だから、生き証人がたくさん残っていた。その当時、何が一番つらかったか、大変だったかと聞くと、ほとんどどこででも、二つのことが挙がった。ひとつは、食べ物がなくて苦しかったこと。
 もう一つは、家族の誰かがロームシャとして連れて行かれて、ひどい目にあったことだ。だからロームシャの問題は、多くの人が深刻な被害を被った、大変な問題だったと言える。ロームシャを一口で説明すると、日本軍の建設作業等のために動員された東南アジアの住民のことだ。建設作業だけではないのだが、多くは建設作業で、インドネシア以外にも、多くの国で動員されている。
 前述したが、そもそも日本軍が東南アジアを占領した目的は、資源と労働力の確保だった。労働力は現地で使うだけでなく、それを必要としている他の占領地まで連れて行く、つまり移住させることもある。インドネシアの場合は、国内で働かされた場合もあるが、一番問題になるのは、ビルマやタイなどの国外や、戦闘が激しかった地域まで連れて行かれて、さまざまな国で仕事をさせられたということだ。
 先ほどから「徴発」という言葉を使っているが、これは「徴用」とは違う。徴発とは、国家総動員令に基づく強制的動員で、これは日本国内のみならず、植民地であった朝鮮半島、台湾でも適用され、そこの人びとも対象となる。
 「徴用」の場合は軍の命令で、来いと言われれば拒否できない、義務がある。それが植民地や日本国内の状況であった。
 東南アジアの占領地というのは、たとえ軍政を行なっていても植民地ではない。日本は法的には主権を持っているわけではないのだ。実際はやりたい放題の権限は持っていたが、主権は持っていないから日本の国内法である国家総動員法は適用されない。徴用するわけにはいかない、あくまで、自発的な応募、本人が志願する、という形をとっていた。
 これはあくまで形の上だけのものだったが、それでも初年度は応募があった。募集に応じてロームシャになれば、いまより倍の給料を払うとか、三倍は払うとか、いい報酬を約束して連れて行く。しかも期間は三か月だけで後は帰してやるとか、かなりいい条件を提示したものだから、最初の数か月くらいは結構集まったという。
 ところが、三か月で帰ってくるはずの父親がちっとも帰ってこないとか、死んだらしいとか、だんだんと噂が広まるようになって、応募してこなくなる。そうすると、当然、強制が働くようになる。どういうことかと言うと、直にその人にではなく、行政官、村長とか郡長を脅す。たとえば「お前の村から何人、いつまでに出せ。でないと、お前を首にする」とか。それで文字通り首を斬ることもあった。
 だから、直接的には東南アジアの役人たちが住民を強制したのだが、背後でそうさせたのは日本軍だ。だから、わたしは直接日本軍が強制していないから強制はなかった、と言うのは認められないと思う。やはり、ほとんどの人は嫌なのに、強制されて連れて行かれたのだから。
 そういう形で、どれくらいの人が徴発されたかだが、アメリカ議会図書館にある資料によれば、ジャワ島から島外に連れ出された人が大体二七万人とある。わたしは別の根拠に基づいて計算し約三〇万人とみている。これは島外だけの数だが、島内で働かされた人を合わせると、その数は四〇〇万人と言われている。一番軽い場合は、一週間だけ自分の住んでいる近くの道路建設に携わり、その後無事に帰ったという人もいる。島内であっても、何百キロも離れた遠くに連れて行かれて、何か月も働かされて、島外と変わらないような場合とか、いろいろなケースがある。だから全部で四〇〇万人と言われて、一瞬、「えっ」とも思うのだが、あながちこの数字は誇張ではないと思う。
 というのは、わたしは八〇年代初めにジャワの村々を調査したとき、必ず村の誰と誰が、いつどのような労働に駆り出されたかを聞き取りしたのだ。そのときに二〇くらいの村(国内各地の)を聞き取り調査したが、その数を元に全国の村の数を掛けると、やはりそのくらいの数になるからだ。
 島外に連れて行かれたロームシャの場合は、死亡率が高く、帰ってこられなかった人の割合が多い。それに期間も長く、帰ってこられたとしても、敗戦後に帰ってきている。アメリカ議会図書館にある資料の推計によると、八〇%(二一万六〇〇〇人)が死んだのではないか、と言われている。その理由の一つは、日本軍の労働に従事させられた場所のほとんどがジャングルだからだ。ジャングルを切り拓いて飛行場を作るとか、ジャングルを切り拓いて道路を作るなどの、非常に過酷な状況下で働かされた。
 一番有名なのが、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道建設工事だ。マラリヤをはじめ、さまざまな熱病が蔓延している非常に環境の悪いところで労働に従事させ、しかも、食糧をジャングルに運ぶのは困難だったから、当然不足している。それに医療品、これは町でも不足していたぐらいだから、ろくな手当ても受けられずに、どんどん死んでいった。
 オランダ当局の資料によれば、帰国できたインドネシア人労務者の数は約五万二〇〇〇人ということになっているが、これはアメリカ議会図書館の資料で示されている推定死亡率八〇パーセント、つまり生存者五万四〇〇〇人、とほぼ一致する。帰国できた人びとのほとんどが、戦後、連合軍の赤十字に救出され、用意された船でそれぞれの出身地に帰った。推定五万二〇〇〇人という数字は、その船に乗せた数を計算して出した数だと言われている。
 数字はともかくとして、泰緬鉄道の建設の場合は、約半分が死亡した。このことが有名になったのは、連合軍の捕虜がたくさん動員されて、この泰緬鉄道の建設に従事させられたことを題材にした『戦場にかける橋』(一九五七年公開、英・米合作映画)という映画が作られたからだ。捕虜がいかにひどい目にあったかを描いた映画だ。しかし、たしかに連合軍の捕虜もひどい目にあったが、実はその何倍ものアジアの人びとがロームシャとして投入され、連合軍の捕虜よりずっとずっと悪い待遇を受けていたという事実がある。  (つづく)

(『思想運動』985号 2016年8月1日・15日号)