HOWS文学ゼミニュース No.5 20221220

                                      発行:HOWS文学ゼミナール
HOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)

◇はじめに――反動下における運動再生を探る(松岡慶一)……………………………1
◇〈歴史エッセイ〉北のひとびと(渥美博)………………………………………………3
◇〈詩〉うどん(自来也)……………………………………………………………………11
◇〈書評〉アンドレイ・プラトーノフ『チェヴェングール』(工藤順・石井勇貴・訳
/作品社/2022年6月)(野田光太郎)……………………………………………………12
◇〈音楽時評〉『ナーズム・オラトリオ』日本初演を観て(杉林佑樹)………………13

はじめに――反動下における運動再生を探る

松岡慶一


 2022年5月22日に第四回HOWS文学ゼミ報告会が「反動下における運動再生のイメージ――中野重治「転向」後の活動を湯地朝雄の批評*から考える」と題して開催された。
*1993年~94年に児玉明のペンネームで発表された中野重治の「転向」後の活動についての四つの評論
 第一報告は松岡慶一、第二報告は伊藤龍哉であった。本来は本ニュースで「報告要旨」を書くところであるが、私松岡の準備は不足している。次回ニュースにまとめる方向で考えている。
 報告では「反動下における運動再生のイメージ」を私は主に報告したかったのだが、「なぜ中野重治なのか? なぜ湯地朝雄の四つの評論なのか」についての私的総括が中心となった。そのため「反動下における運動再生のイメージ」を報告することがほとんどできなかった。
 ここでは、なぜ「反動下における運動再生」を問題にするかを書く。それはいま文学ゼミニュース第5号を発行することとかかわっているからだ。
 「反動下における運動再生のイメージ」とは児玉明(湯地朝雄)の「独立作家クラブと中野重治」(『社会評論』No.95、1994年7月1日)の副題である。その評論では最初のほうに1935年に書かれた政府の「文芸統制」を批判する中野重治の評論が取り上げられ分析されている。それに続いて1935年9月に提唱され、1936年初めにつくられた「独立作家クラブ」についての中野の評論が批評されている。児玉明は書いている。中野重治は、「『文芸統制』を推し進め、擁護する反動的勢力に抗して、『統制』に反対し、学芸の自由を擁護する進歩的勢力によって新しい文学運動体〔プロレタリア文学運動の敗北(プロレタリア作家同盟は1934年前半に解散)からの再生を目指す―筆者注〕を創り出そうとしてかなり熱心に活動しようとしたあきらかな形跡がある。……独立作家クラブの問題である。」と。児玉明の評論は精緻でここでは詳しく紹介できないが、中野重治の「独立作家クラブについて」(1936年4月『改造』)によると、独立作家クラブに対する要望として中野は「お茶の飲める家」とか「それ自身懇親的であるような研究会」として菊池寛に恋愛と結婚について、方言について柳田国男に、その他自然科学、数学について専門家に話を聞くなどの研究会を望み、春の花見、秋の遠足とかも必要と、懇親・親睦・学問的向上を図ることを独立作家クラブでやりたいことと書いている。文学運動の闘争組織ではなく、クラブであり、かなり緩い組織であることを要望している。「プロレタリア作家たちをより広い世界に連れ出して見聞を広めさせ、その思想の襞を深くさせようという意図があったのかと思わせるようなところがある。」と児玉(湯地)は書き、この意図を反動的・反革命的な状況において(1935年~36年の日中全面戦争に向かう時流)でのかなりユニークな試みとして評価している。独立作家クラブは1938年1月には解散してしまうのだが、実際どんな活動をしたのだろうか?

いまこれを書いている時、「敵基地攻撃能力保有」を自民党・公明党が合意したという報道がなされた。日本国憲法の平和主義からの大転換である。この十年で平和憲法は破壊されてきたのだ。
 この反動的・反革命的状況に対して反撃しようとするわれわれの力は弱い。文学・芸術運動の担い手も先細っている。これをどうしたらよいか?
 2000年10月からHOWS文学ゼミ(略称戦後文学ゼミ)でリーダー武井昭夫・湯地朝雄と共に活動してきた私は、「反動下における運動再生」の必要をいま強く思う。
 1990年代後半の本郷文化フォーラム、さらに2000年のHOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)(その付属ゼミとしての戦後文学ゼミ)の開設は、1994年(ソ連邦解体から間もない)に湯地朝雄が思い描いたであろう「反動下における運動再生のイメージ」の具体化ではなかったかといま思う。2000年の出発から20年余、われわれの力はさらに弱まった。いまなにをなすべきかを考えたい。
 話は大きく飛躍するが、文学ゼミでも「反動下における運動再生のイメージ」を模索したい。その参照としての「独立作家クラブ」についても考えてみたい。

本ニュースは、いままで続けてきた例会とその報告という形をとっていない。個人の思想を深める形で、エッセイ、詩、絵などを掲載する。ジャンルにはこだわらない。文学に限らず、歴史、音楽、美術など多様なものを今後載せていきたい。
 時には、花見、遠足、茶話会もよいではないか。
 共に模索してみよう!

 

 

歴史エッセイ  北の人びと

渥美 博

 

NHK・BSプレミアムの、タイトルは忘れたが、ドキュメンタリー番組で、下北半島のある寺に伝わっている蝦夷錦の袈裟を見た。蝦夷錦というからにはそれはアイヌからもたらされたものに違いない。狩猟、漁労、採集民族としてのアイヌと高級絹織物・錦のとり合わせに不思議なものを感じた。
 しかし、それ以前からわたしは蝦夷錦という言葉を知っていたはずである。当たりをつけて、だいぶ前に読んだことのある司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ38の『オホーツク街道』を開いてみた。

 秀吉が悪名高い朝鮮入りをしたときも、慶広(蠣崎氏、のちの松前氏―引用者)は遠く九州へゆき、肥前名護屋城で秀吉の機嫌をうかがった。文禄二(1593)年のことで、このとき、慶広は蝦夷地交易の独占権をもらった。
 この名護屋城内で慶広は錦の十徳のようなものを着ていた。秀吉のかたわらにいた内大臣徳川家康がそれをほめると、はらりと脱いで家康に献上した。

とあった。
 錦の産地は中国、蘇州であり、古い時代から絹織物の家内工業の盛んな土地であったとの
記述もあった。
 北海道渡島半島松前の小領主慶広が中央の有力大名家康からうらやましがられるほどの錦をまとっていたのである。もちろん慶広はそれをアイヌから手に入れたに違いない。アイヌは錦をどこから手に入れたのか。調べてみれば交易ルートは北へ北へと伸びてゆき、カラフトからさらにアムール川(黒竜江)をさかのぼって、中国王朝の満州仮府に行き着くのである。この山旦交易ルートは古くから開かれていたようであり、主に中国の絹織物と北方諸民族の毛皮が交換されていた。もっと端的に言えば中国の毛皮を得るための窓口であった。
 もちろん錦は南の交易ルートからも日本に入っていたはずであり、慶広の錦を家康がことさらほめたということは、北からもたらされる蝦夷錦はまた違った魅力を持っていたのであろうか。
 アイヌは狩猟、漁労、採集民族であって、交易とは無縁な存在であるという強固な誤った固定観念が筆者にあって、「蝦夷錦の謎」を追求しようという気持ちを封じ込めていたのかもしれない。
 映像で観た蝦夷錦は長い年月を経て、なお絢爛豪華であった。

(一)北へ

 日本列島と朝鮮半島の交流はよく語られる。その交流のなかから日本の、いわゆる中央の社会、国家、文化が形成されてきたのはおおむね事実である。しかしそれだけではない。南からの人と文化の流入がある。伊良湖岬に流れ着いた椰子の実のように黒潮に乗ってやってきた人たちがいる。さらに北に目を向ければ本州、北海道、サハリン、極東シベリアは狭い海峡をはさんで連なっている。
 蝦夷錦の魅力に誘われて北の交流史を探ってみたいと欲求にかられた。それは必然的に縄文人→続縄文文化→擦文文化→アイヌ民族への関心を深めることになるわけである。
 もとより歴史の専門家ではないシロウトが書くものであるから眉唾で読んでもらって、一向に差しつかえないものであるが。
 交易は、倭寇やバイキングのことを思えばわかるように常に平和裏に行われたわけではない。

これで腕前の程は証明済みだ。
旦那のお褒めに与れば、それで結構。
港を出るときは2艘だったのに、
それが20艘になって帰ってきた。
どんな大仕事をやらかしたかは、
揚げ荷を見て貰えばよくわかる。
自由な海は、精神を解放する。
思案するなどということは無意味だ。
さっと引っ摑めばそれでいい。
魚を摑むように、船を摑まえる。
3艘に殖えれば、
4艘目は鉤で引っ掛けて手繰り寄せるさ。
5番目の船こそ災難だ。
暴力のあるところ、権利も生じる。
どうして取ったかではない、何を取ったかが問題だ。
舟軍(いくさ)と貿易と海賊の三つは、
三位一体で分けられないということが合点できないようだったら、
航海の素人だといわれても仕方あるまい。
   ゲーテ『ファウスト』「第二部 第五幕」新潮文庫 高橋義孝訳

 メフィストフェレスのこのセリフはヨーロッパの近代を準備した大航海時代の「時代精神」の真実を見事に言い当てている。
 またマルクスは『資本論』「第二巻 第六章 流通費」のなかで17世紀のイギリスの劇作家ナサニエル・リーの戯曲『争う王妃たち、またはアレクサンドロス大王の死』のなかから「ギリシャ人がギリシャ人と出会えば激戦が起こる」のセリフを引用して商取引のもつ酷薄な一面を書きとめている。
 より多く分捕ったやつが繁栄する。歴史を裏面から見ればそれが真実であろう。ヨーロッパの近代文明もギリシャの輝かしい文明もその基礎の上に花開いた。われわれ日本の近代もアイヌ民族、琉球民族、朝鮮民族など周辺諸民族の略奪のうえに開花したのではなかったか。
 有史以降の北の交流史はヤマト王朝と蝦夷の関係として登場する。水田稲作農耕を主たる生業とした弥生人が、やがて各地でクニを形成し、それらのクニ群を統一してヤマト王朝が成立する。一方で水田稲作農耕を取り入れなかった人々、あるいは気候の寒冷化によって取り入れられなかった人々、取り入れたとしても部分的で、生業の主たる側面を狩猟、漁労、採集、雑穀栽培とした人々がいた。それらの人々をヤマト王朝は北方に住む未開の人=夷とし、蝦夷(えみし、後にえぞと呼称される)と名づけた。これは中華思想にもとづいた差別用語である。「日本列島の北に住む人々」あるいは「北の住人」としても、どれもしっくりこないので蝦夷をカタカナ表記でエミシと表すことにする。

 

(二)シベリア・サハリン・北海道

 氷期の海面低下により、北海道はおよそ1万2000年前ごろまではサハリンと陸続きであった。宗谷海峡は水深60メートルほどである。間宮海峡はそれよりも浅い。サハリンは大陸と陸続きの半島であった。北海道はアムール川河口から南にのびる大きな半島の先端部分であったわけだ。どうやら北海道は本州の北にある島と考えるよりも、シベリア、アムール川河口、カラフトの延長線上で考える方が妥当なようである。ツキノワグマとヒグマの生息分布に代表される動物相の境界線(ブラキスト線)が津軽海峡にあることによってもそれは裏づけられるのである。
 北海道の旧石器時代の遺跡で特筆すべきは紋別郡遠軽町の白滝遺跡であろう。十勝石の名で呼ばれる黒曜石の一大産地である。黒曜石はガラス質の火山岩で、軽くたたくと薄く剥がれ、鋭利な刃を作ることができ、大変貴重なものであった。他産地のものと比べて白滝産はとりわけ鋭利であった。白滝の市街地から北北西6.5kmに位置する赤石山(1172m)の噴火で流れ出た溶岩が固まってできたものである。山頂部から湧別川流域に集中する遺跡は、一番上流部の「切り出し基地」(標高800m)、中継地(標高600m)、「集落」(標高400m付近)に分かれ、この遺跡から大量の細石刃や楔形細石刃核が見つかっている。石材の採掘、搬出、制作が分業的に行われていたのではないかと推測されている(『北海道の歴史』山川出版社)。
 ここで加工された黒曜石は全道各地に運ばれ、陸橋で結ばれていたサハリンの遺跡でも発見されているし、さらにシベリア方面にも運ばれていた。「黒曜石の道」である。モノの移動は文化の移動でもある、東シベリア、アムール川流域とサハリン、北海道、本州に広がる広い文化のネットワークを想定することができる。
 時代が下がって、縄文早期に石刃鏃文化という独特の石器文化が存在した。石刃鏃とは幅1~1.5㎝、長さ5~6㎝ほどの石刃を加工して鏃(やじり)にしたものである。石刃鏃文化の遺跡は道東北部を中心に広がっている。石刃鏃はサハリンやアムール川流域の遺跡から大量に見つかっており、石刃鏃文化の故郷はバイカル湖周辺、アムール川流域であるとするのが定説化しているようである。それらの地域の人々が北海道に移住してきたものと考えられている(『北海道の歴史』)。石刃鏃文化の人たちは優秀な原石を求めてはるばる移動してきたのであろうか。石刃鏃に白滝の黒曜石が使われているのである。 
 約1500~800年前、本州のヤマトの時代区分でいえば奈良朝から平安朝末までの時代であるが、カラフト、北海道、南千島のオホーツク海沿岸に北方の海洋性文化が展開した。海獣狩猟と沿岸漁労を主な生業とするオホーツク文化である。
 1913(大正2)年9月、米村喜男衛が網走川の河口の砂丘で後に「モヨロ遺跡」と呼ばれるようになる貝塚を発見した。青森県津軽の出身の米村は高等小学校中退の学歴であったが、考古学を独学し、東京の神田の理髪店で働いていた時、東大人類学教室の鳥居龍蔵博士の知遇を得た。米村はアイヌの研究をしようと北海道に渡り、函館で研究した後、さらに奥地の網走をめざした。網走に到着し、翌朝散歩に出た米村は網走川の河口の砂丘の断面いっぱいに貝殻層が露出して、厚さ1mほどの層が数層も重なっている巨大な貝塚を発見した。貝類のほかに石器、骨角器、土器、人骨も出た。出土した土器はこれまで見てきた縄文系とは全く違ったものであった。砂丘の上には大きな竪穴住居跡が数十カ所もあり、大集落の後であった。
 米村は網走で理髪店を開業し、定住して調査、研究をつづけた。出土した土器はアムール川河口から中国東北部にかけて出土するものと似ている。人骨は日本人ともアイヌ人とも異なる特徴を持っていて「モヨロ人」と命名された。オホーツク文化の存在が明らかになった。
 本州以南で稲作とともに弥生時代が始まった時、当時水田稲作の不適地であった北海道の縄文文化は続縄文文化へ移行した。鉄器の移入はあったが、稲作に頼らず基本的に縄文時代の生活様式を継承した続縄文文化はやがて擦文文化時代へ移行する。擦文文化は8世紀半ばに始まり13世紀の初めまで迄続く。オホーツク文化は続縄文時代後半期から擦文文化時代にかけて北海道で共存していたことになる。オホーツク文化人は海獣狩猟と漁労を主な生業とし、農耕は行わない。出土した青銅製の帯飾り、耳環、小鐸、鉾、土器は東北アジア起源のものである。蕨手刀や刀子など本州からの鉄製品も出土しているが、あくまでも基本は北方文化である。
 オホーツク文化はなぜ消滅したのか。カラフトが元(モンゴル帝国)の支配下に入ったためという説がある。オホーツク文化を担った人々はアムール川河口域からカラフト北部に住むニブフ(ギリヤーク)やウィルタ(オロッコ)であろうと言われている。その人たちが元の支配下に入ることによって民族的エネルギー失ったのではないかというのである。
 4~5世紀ごろに始まったとされる小氷河期と呼ばれる寒冷期があった。この時期に北海道の続縄文文化の特徴を持った土器が宮城県の北部まで分布している。東北北部地域の稲作がこの時期途絶している。オホーツク人の南下、続縄文文化の南下、これらのことを考え合わせれば、北の地方に住む諸民族が寒気に押されてトコロテン式に、南に移動したのではないかと考えられるのである。小氷河期が過ぎて温暖な時代になれば北からの人の移動のエネルギーはなくなるのであって、オホーツク文化の消滅の原因を元の支配に求めるよりも気候の変動におく方が妥当であるような気がする。
 縄文人はおそらく南からきて日本列島に広がっていった。北海道の縄文文化の本格的な開始は約8000年前の縄文早期からである。続縄文時代、擦文文化時代を経てやがて擦文文化はオホーツク文化や本州の文化と融合し13世紀ごろにアイヌ文化が形成されたという説が有力である。オホーツク文化は消滅したというよりもアイヌ文化の形成に大きく寄与して北に退いたと考えた方がいいのではないだろうか。アイヌ文化といえばわたしたちの頭にまず浮かぶ熊送りの儀式や衣服の独特の文様は北方からもたらされたものであるらしい。神話や昔ばなしなどもわれわれ本州の人間が親しんできたものと大分違う。北方文化の影響であろうか。

(三) 水田稲作農耕

 水田稲作農耕が九州北部に伝わったのは、従来は紀元前5~4世紀ごろと考えられてきたが、国立歴史民俗博物館が主導して21世紀になって行った土器付着炭化物の放射性炭素年代測定の結果、弥生時代の開始年代は紀元前10世紀までさかのぼるらしい。
 近来、古気象学の発達はめざましいものがあって、木の年輪を調べればその年の気候状態がわかるようになってきた(年輪酸素同位体比)。これだけでは稲が伝来してきた3000年前の気候はわからない。屋久島の縄文杉の助けを借りても無理であろう。尾瀬ヶ原の泥炭堆積物のサンプルを採取し、夏の気候の指標と考えられているハイマツの花粉量を調べることで、木の年輪を調べたのと同様の結果が得られるのだそうである。その調査の結果紀元前10世紀はとても寒冷であることが判明した(『気候適応の日本史』中塚武 吉川弘文館)。なぜそんな寒い時期に稲が伝わってきたのか疑問が残るところである。日本列島の側から見ればそうであるが、朝鮮半島の水田稲作農民の側に立てば、寒冷化によって毎年のように凶作に見舞われれば、相対的に温暖と思われる「南の島」九州は魅力的に思われたに違いない。いやそれ以上に飢えから逃れるための存亡をかけた必死の移住であったのかもしれない。
 北九州に伝わった水田稲作農耕は急速に九州各地や本州に広がったのではなかった。水田稲作は当時の素晴らしい先端技術であったから、「未開」の縄文人たちがただちにこれを迎え入れたに違いないという先入観は捨てなければならない。縄文人は狩猟、漁労、採集を主な生業とし、そのうえ海辺の人々は現在と比べ物にならないくらい豊富な貝類、海藻類を容易に手にすることができたのである。結構栄養バランスの良い食生活をおくっていたのではないだろうか。
 水田稲作は人手のかかる農業である。耕して種を播けばすむというものではない。水田は山沿いの土地から始まった。まず土地の傾斜を改善して平らな面を作らなくてはならない。石垣などを積む技術がいる。水を引いてこなければならない。灌漑技術がいる。畔を作って水を洩れないようにしなければいけない。そしてそれらを常に修繕して維持していかなければいけない。多くの人の共同作業を必要とするのである。豊かな自然のなかで、ある意味「のんびり」暮らしていた人々が「最先端」だといって水田稲作に飛びつくはずもないのである。
 稲の大量生産を可能にした水田農法は権力を生み出す。やがて登場するヤマトの王権は列島への水田の広がりとともに大きくなっていくのである。一方で稲作に頼りすぎた農業は時に農民に凶作、飢饉という不幸をもたらす。ひとたびオホーツク海に高気圧が発達し居座ると、東北の風(やませ)が東北地方を襲い、夏でも袷が手放せなくなる。江戸時代に盛岡藩領(現在の青森県の東半分を含む)で発生した凶作(不作を含む)は実に92回、そのうち飢饉になったのは17回に及ぶ。凶作には3年に一度、飢饉には16年に一度襲われたことになる。飢饉に百姓一揆はつきものである。飢えた人々は値上がりを待って売り惜しみをする米問屋を襲う。意外というか、当然であるが江戸時代に盛岡藩領で発生した百姓一揆は153件におよび、これは全国第一位となる(『岩手県の歴史』山川出版)。
 1944(昭和19)年5月故郷津軽を旅した太宰治は津軽風土記ともいうべき『津軽』を書いた。敗色濃厚となってきたアジア太平洋戦争のさなか、好戦的作品以外は書きにくい状況の中で、津軽の民衆の生活に焦点を当てた好紀行文である。太宰は中学時代の友人N君を蟹田に訪ねる。N君は青森県郷土史研究会の会員である。N君の持っている文献の中に津軽凶作年表といったものが載っている。太宰はそれをベタではなく一行ずつ丁寧に作品に転載している。このことによって太宰の津軽の民衆の苦難の歴史への思いが強く伝わってくる。一端を紹介する。

 (略)
 この記録が「昭和十五年、半凶」まで続くのである。
 元和元(1615)年から現在まで約330年間に60回の凶作があり、5年に一度の割合で凶作に見舞われていると記述している。「私たちの幼い頃にも老人たちからケガズ(津軽では、凶作のことをケガズと言う。飢渇の訛りかもしれない。)の酸鼻戦慄の状を聞き、幼いながらも暗澹たる気持ちになって泣きべそをかいたものだが、久しぶりに故郷に帰り、このような記録をあからさまに見せつけられ、哀愁を通り越して何か、わけのわからぬ憤怒さえ感ぜられて、」と書いている。
 近世の旅行家菅江真澄は天明3(1783)年30歳のとき、故郷三河を後にして、伊那谷から越後を経て、秋田、津軽と足を延ばした。さらに北海道に渡りアイヌの集落も訪れている。真澄は多くの旅行記を残している(平凡社 東洋文庫『菅江真澄遊覧記』①~④)。当時の東北の人々の民俗、芸能、暮らし、自然、植物などの興味深い記録を、文のみならずスケッチでも残してくれた。

 道をしばらくきて浮田というところへでた。卯の木、床前(西津軽郡森田村)という村の小道を分けてくると、雪が消え残っているように、草むらに白骨がたくさん乱れ散っていた。うず高くつみ重なっている。頭骨などの転がっている穴ごとに、薄や女郎花のおいでるさまは、見る心持がしない。
 
 天明5年、津軽の西海岸の村にさし掛かった真澄が飢饉の惨状をまのあたりにして呆然としてたたずんでいると、通りがかった人が

 ごらんなさい、これはみな餓死したものの屍です。過ぐる天明三年の冬から四年の春までは、雪の中に行き倒れたもののなかにも、まだ息のかようものが数知れずありました。その行き倒れものがだんだん多くなり、重なり伏して道をふさぎ、往来の人は、それを踏みこえ踏みこえ通りましたが、夜道や夕ぐれには、あやまって死骸の骨を踏み折ったり、腐れただれた腹などに足を踏み入れたり、その匂いを想像なさい。

と話した。(『菅江真澄遊覧記』①「外が浜風」)
 天明の大飢饉は日本史上未曽有の餓死者を出した。盛岡藩士横川良介は天明三年の気候を次のように述べている(『内史略』、『青森県の歴史』からの孫引き、要約)。「年明けから寒気が非常に厳しく、五月の田植えの時期になっても冷たい霖雨が降り続き、重ね着をしなくてはならないほどで、作物の生育は非常に悪かった。土用(立秋前の18日間)中に至っても、曇りがちで暑くならずやませと北風が強く、浴衣を着ることはまれであった。さらに追い打ちをかけるように浅間山が大噴火を起こし、この地方まで灰が降りそそいだ。二百十日前後にもやませは吹き、降り続く霖雨で田畑の実りはなく大凶作にみまわれた」と。ひとたび大凶作にみまわれれば、人々は次のような循環のなかに投げこまれる。凶作→一揆・騒動→地逃げ・非人化→強盗の頻発・餓死者の発生→疫病の流行による大量死→回復。
 真澄はこの旅で、つてを頼って松前に渡り餓死から逃れた人や着の身着のまま地逃げする人々にも遭遇している。
 真澄はこんなことも書きとめている。

岩崎(津軽西海岸深浦の南―引用者)という海辺の部落にさしかかった。-略―ここに住む漁師の習慣として手槌藻(マツモ)というものを春の海にでて刈り、それを干して米、粟、麦とまぜ、常食としているので、さる天明三年四年の飢饉のときにも、なんの心配もなかったという。(『菅江真澄遊覧記』③「外ヶ浜奇勝」〈二〉)
 
これらのことは稲に偏重した農業は、特に東北北部地方では農民を時に大変危険な状況におとしいれることを物語っている。古墳時代の寒冷期を過ぎても東北北部の人々は水田稲作農耕民にはならなかった。水田稲作を部分的に取り入れても一方で、縄文的な狩猟採集の生業を捨てなかった。豊かな山菜、春にとれる根曲り竹のたけのこ、これは美味である。現在の秋田の人はこれをカンズメにして保存している。畑で稗、粟、ソバ、麦、豆類などを作り、秋には沢山のキノコ類、栗、クルミ、トチなどの堅果類、なによりも川には沢山のサケがのぼってくる。米だけに頼る必要はみじんもないのである。(つづく)

 

 

詩  うどん          自来也    2022.08.01

 

おれはソバ派だが
時々うどんを無性に
喰いたくなる
近くのイヤンモールの
丸鶴うどんの列に並ぶ
ほかの店はさほどでもないのに
ここはよく列ができる
ソバを喰う時は冷たいのに限るが
うどんは温かいのがいい

かけの並盛をたのむ
カウンターの上を
どんぶりを乗せたトレーを滑らせていく
レジにたどり着くまでに
かき揚げ天 なす天 イモ天 あじ天 いか天
ごぼう天 レンコン天 かしわ天 
いなり むすび がズラッと並ぶ
ひとつ ふたつ みっつと手が伸びて
ワンコインではとてもおさまりがつかなくなる
レジの手前の
無料の揚げ玉 ネギ ショウガを
仇を討つように
どんぶりに投げ入れる
(実に配列の妙ではあるな…)

腹がおさまって ふっと
おれは長かったわが人生を思う
トレーを滑らせながら
欲望にかられて どんぶりに
さまざまな物を投げこんできた
おれの人生を

反歌
おれはすでに金の卵を
生まなくなった老いぼれ鶏だが
「経済を回す」役割はまだ
果たしているわけだ

 

 

書評 アンドレイ・プラトーノフ『チェヴェングール』
(工藤順・石井勇貴・訳/作品社/2022年6月)

  

野田光太郎

 

 プラトーノフはロシア革命をボリシェヴィキとして戦った労働者出身の作家である。1920年代に書かれたその唯一の長編『チェヴェングール』の初めての日本語訳が今年、刊行された。ロシア革命期を舞台に、前半は作家の自伝的な要素を含んだ流浪の物語、後半は架空の寒村チェヴェングールを舞台とした「共産主義」建設の物語で、日本語版で約600ページに及ぶ大作である。舞台は現在のロシアとウクライナの国境近くにあり作者の生まれ故郷でもあるヴォロネジから始まり、最近の両国間の戦争でも名前を知られるようになったウクライナのキーウ(キエフ)やハルキウといった地域に及ぶ。
 一応の主人公は孤児からボリシェヴィキとなったドヴァーノフだが、必ずしも彼の視点で記述が進むわけではない。彼の育ての親パーヴロヴィチ、ローザ・ルクセンブルクを熱愛するドン・キホ-テ的な革命の闘士コピョンキン、チェヴェングールの「革命委員会」を率いるプロコーフィなど、様々な人物が代わる代わる視点人物となるという、入り組んだ構成になっている。
 ここで出てくる「共産主義」や「革命委員会」の実態は、われわれがその言葉からイメージする組織とは大きく異なっている。 ロシア革命において重要な舞台となった農村部における苛烈な内戦の最中で、武器を手にした貧農や未組織労働者が半ば手探りで「共産主義」を理解していた時期であり、アメリカの西部劇に出てくる開拓時代を思わせる粗野で荒涼とした空間や社会こそが真の主人公と言ったほうがよい。
 革命前後における飢饉や突発的に巻き起こる戦闘によって人命が当たり前のように失われ、崩壊した農村から都市へ流れ着いた孤児たちが乞食をしながらかろうじて生き延びていた時代だ。この小説に姿を現す「ボリシェヴィキ」たちは、観念ではなく、過酷で粗暴な日常を生きぬく中で、断片的な知識を寄り合わせて、彼らなりの哲学として「共産主義」を理解し、 敵であるアナーキストやカデット(立憲民主党員)と自分たちを分かつ指標としている。モスクワからの指令はたびたび届かなかったり、矛盾していたりする。どこで何が起こっているのかを俯瞰できている者はここにはいない。半ば合い言葉のようになっているレーニンという指導者の名前が、かろうじて彼らを同じ共産主義者の味方として結びつけているにすぎない。
 しかしプラトーノフのこの小説の特筆すべき点は筋書きにあるのではなく、むしろ出来事がどのように語られているかという独特な叙述のしかたにある。その特異な文体は物事を明瞭にとらえながらも、人間が事物を把握しようとする主体的な視線そのものが、同時にまた「事物からの視点」によって客体化されてしまうとでもいうような、奇妙な剥離感覚に満ちている。また人物の行動を説明する記述に関しても、主体的に選択したはずの行動が、あたかも自然界から強いられた衝動に操られているかのように描かれるため、あらゆる登場人物が知性の大小に関わらず、不条理で行き当たりばったりな堂々巡りの行為にとりつかれているようにさえ思われる。
 そうでありながら、一方で作品はロシアの現実にしっかりと根を降ろしているように見える。民衆のとらえ方があまりにリアルだ。ロシア的とでも言う他ない憂うつの感情が分厚く彼らの生活を隅々まで覆っている。幾世代にもわたって続く極度の貧しさと、すべてに打ちのめされ切った人々の諦めの気持ちが堆積して、ある種の人生観を形作っている。その乾いた認識から出てくる、ユーモアというにはあまりにも野卑で武骨すぎる「笑い」の感覚。そして人間の営みに立ちはだかる広漠とした「自然」の圧倒的な存在。いまだ理性の光は都市のインテリにしか及んでおらず、蒸気機関のような科学技術も、人びとには自分たちを疎外する魔術的なものとして理解されてしまう時代。
 こういった混とんとした現実と内面をはらんだロシアの極貧の民衆にとって、革命とは何だったのか。際限なく続くかに見えた暗鬱たる日常を切り裂く一条の光であり、積年の渇望を満たそうとする天の啓示のようなものだったのかもしれない。そのコントラストをとらえるにはプラトーノフの特異な文体がどうしても必要だったのだろう。とりわけ、理不尽に突発する暴力の描写は戦慄的な鮮やかさに満ちており、奇妙な美しさをも感じさせる。
 結局のところ、シジフォスの神話を思わせる村落チェヴェングールにおけるあてどない「共産主義」建設は、戦時共産制における戦闘員の同志的な結合から経験的に導かれた原始共産制への(仮想の)逆戻りであり、市場経済の萌芽すらも嫌悪するリーダーの直感的なブルジョア忌避により、コミューンとは称しつつもアジールのようなものに留まっている。党の正しい指導があってこそ真の共産主義へと至ることを、この小説は逆説的に証明しており、しかしその指示命令が可能になるまでには都市部を中心とした集権的な制度の確立が不可欠であった。この作品は一見すると難渋な文体でありながら、そのことでかえってロシア革命がどのような困難を抱えて切り開かれたかを民衆の生の現場から解き明かしている。

 

 

音楽時評  『ナーズム・オラトリオ』日本初演を観て

杉林佑樹

 

本稿は、ヒクメット生誕120周年記念として9月16日に名古屋で上演されたファジル-サイ『ナーズム・オラトリオ』を観て『思想運動』紙に詩などの翻訳を掲載されている杉林佑樹さんが書かれた覚え書きである。杉林さんのご好意により本ニュースに掲載させていただいた。(ニュース編集部松岡)

 ファジル‐サイにとって「最終的に大切だったのは、詩人の言葉が理解されること」(ユルゲン‐オッテン『ファジル‐サイ』におけるインタビュー)だった。しかし、『ナーズム・オラトリオ』という作品に即してより正確に言えば、サイが聴衆に理解を求めたのは詩の言葉というよりも詩の土台にあるナーズム‐ヒクメットという詩人の課題、すなわちこのオラトリオにおいて「青年期」「獄中にて」「人間について」「故郷について」の四つの章に振り分けられ朗読・合唱・歌唱される、一六篇の詩作品があらわす詩人の生涯と思想、そして何よりもそのビジョンだった。生の統一体をそのままにしておくのではなく芸術における機能的統一体へと移行させることによって、詩作されてあるものとして独自の意味構造をもつに至ったヒクメットの詩作品を、その意味構造を展開することで詩作品の真理内容を捉えると同時に、詩作される以前の詩人の生や思想やビジョンへといったん投げ返しつつ、これをもう一度、音と言葉という要素の配列(音と言葉、音と音、言葉と言葉の結合)によって芸術における機能的統一体へと形成する。そのことによってヒクメットの詩の言葉がもっている真理内容への理解を聴衆に促すのがファジル‐サイの試みなのである。それは、詩作されてあるものの再詩作といった性質を持っている。そして、芸術批評にとっての最大の課題は、この諸要素の結合関係としてある芸術における機能的統一体が何を実現しているのか、という問いにある。

異化する音楽

 実際、このオラトリオのある箇所ではあえて詩人を演じる朗読者の言葉を妨害するような演奏もなされており、音楽は必ずしも詩の朗読を下支えするばかりではない。詩人の言葉の朗読だけではなく、音楽それ自体がヒクメットの詩の真理内容の表現となるのである。
 たしかに第一章「青年期」において、かすかに聞こえる風の音に始まりバリトンの独奏によって表現された静寂から、裏拍を強調するピアノといっせいに演奏を開始するオーケストラの管楽器、そしてパーカッションの激しい連打による喧騒への移行が、ヒクメットの詩「糸杉」における「糸杉の木が我が家に/そよぐ風にゆらゆらと/星空にそびえるために/深く大地に根を張り」という第一連の牧歌的な風景の独唱から、糸杉の命脈が断たれる第二連の「敵が来た真夜中に/奴ら襲いかかる/切れた根元から」、そして第三連の「大地に根ざすこともない/風にゆらぐこともない/命とめられた糸杉」への転調を支えているように、多くの局面で、詩と音楽は照応の関係をなしつつ進行する。冒頭の風はいわゆる嵐の前の静けさとしての予兆であり、その静寂からの移行はこれから詩人を襲う厳しい運命、人間を罪と不幸と犠牲の連関のなかに呪縛する「神話的」と言っていい諸力を示唆する。この音楽と詩の照応にもとづく対位法的な進行それ自体は、第一章「青年期」全般に渡り、苦難に対する詩人の決意をあらわす詩篇「ケレムのように」の印象的な朗読へと引き継がれる。
 しかし、たとえば第二章「獄中にて」の第一節「膝まで積もった雪の夜」では、この詩と音楽は後者による前者の下支えという照応の関係にはない。ここでは、ヒクメットの詩を読み上げながらトルコの言葉でヒュズン(Hüzün)と呼ばれる一種のメランコリックな気分に刑務所のなかでふける朗読者を妨害するように、楽器の音が挿入される。詩人の言葉をゆったりと読み上げる朗読者を急かすハイテンポのピアノをはじめとして、次第に朗読者に対する音楽の妨害が大きくなり、やがてはオーケストラ全体の演奏が朗読者を妨害する。ここでヒクメットを演じる朗読者によって読み上げられる詩人の言葉を妨害する音は、出版禁止を強いられ、投獄された詩人の運命を支配する神話的秩序のアレゴリーである。つまり音楽は朗読者の言葉を妨害することによって、詩の言葉があらわす状況を表現するのである。
 また、第三章「人間について」における「女の子」の詩のためのソリスト(歌、グロッケン、リコーダー)として起用された三人の子どもたちによる歌唱についても、その最中に突然、パーカッションの耳をつんざくような音が挿入され、聴衆はトルコ語における韻律を忠実に体現する見事なソリストの独唱に聴き入ることを禁じられている。原爆によって犠牲となった少女の意識のうちに現象するかのようにして作詩された「女の子」の歌唱とグロッケン、リコーダーによるささやかで無垢な嘆きの音調とは対照をなす野蛮な音は、少女の犠牲の背後で働く、より大きい神話的で破壊的な諸力の影を暗示する響きとしての合唱団の唱和が導入される契機となっている。そしてこの伴奏は、「女の子」続く詩でありながら、犠牲の直接的な原因を「空にはきのこ雲/その雲が殺したのだ」として指示する「ヒロシマ」の別のソリストによる歌唱に引き継がれ、背後の響きは前面化する。
 このようにしばしば楽器の音や伴奏といった音楽上の諸要素は、単に詩人の言葉の朗読や歌唱を下支えするだけではない仕方でヒクメットのビジョンを形象化するのである。
 こうしたことが示すのはファジル‐サイにとって重要なのは聴衆が詩人の言葉に没入することでも、ましてやそれに感情移入することでもなかったという事実である。サイのオラトリオには、少し言葉を言い換えてみれば、次の綱領があてはまるだろう。「叙事演劇の技巧は、感情移入ではなくむしろおどろきを、よびさますことである。定式化していえば、公衆は、ヒーローに感情移入することではなく、むしろ、ヒーローの行動のおかれている状況におどろきをおぼえることを、もとめられるのだ。ブレヒトの考えでは、叙事的演劇では、筋の展開よりも状況の表現のほうが、重要である。ここでいう表現は、自然主義の理論家のいう再現とはちがう。第一に必要なことは、まず状況を発見することだ(状況を異化すること、といってもよい)。この状況の発見(異化)を実現する手段が、劇の流れの中断である」(ヴァルター‐ベンヤミン「叙事演劇とは何か」〔石黒英男編訳『ヴァルター‐ベンヤミン著作集』第9巻〕)。
 すなわち作曲家ファジル‐サイにとってもっとも重要なことは、詩人を、そして何よりも人類をとりまく状況や諸力をはっきりと対象化することであり、そのためにこそ音楽と詩を組み合わせるのである。

神話的な諸力の内実

 メインの朗読者によって朗読される、第三章「人間について」の最終節に挿入された詩作品「私たちはどこから来てどこへ行くのか」は、人間の犠牲をもたらす神話的諸力の内実の分析である。この詩の第一連、「人類が二足歩行になって立ち上がり/棍棒を手に持ち最初に石を叩き割ってから/破壊するのも創造するのも人間だ/どちらも人間だ/愛する人よ」は、ヒクメットの問題が、人間の犠牲を要求する人間の産物にあることを示唆している。第四連の「子どもたちは明日死ぬかもしれない/マラリアでもなくジフテリアでもなく井戸に落ちてでもなく/髭の兵士のように死ぬかもしれない/子どもたちは明日死ぬかもしれない原子雲の光で」における、子どもの死がマラリアによるのでもなく、ジフテリアによるのでもないというある意味で冗長なパッセージは、人間の犠牲が決して不可避の自然法則による犠牲ではないことを念入りに指し示す。そこでは、子どもたちも、そして子どもたちの生死を「かもしれない」というかたちでしか把握できない大人たちも、その諸力のまえにみずからの運命をみずからで決定することができない。犠牲をもたらすのは、自然の猛威ではなく、人間自身によってつくられたのにもかかわらず人間の手を離れて人間自身を絞め殺すにいたった「第二の自然」の猛威なのである。それによってもたらされるのは文字通り破局であり、この詩の第六連では「一つの街があった/今は跡形もない/五つの街があった/今は跡形もない/百の街があった/今は跡形もない」とシンプルな対句で、破局の風景が形象化される。
 ヒクメットが洞察するのは、そしてファジル‐サイがヒクメットの詩の真理内容として受け取ったのは、アウシュヴィッツ以降、そしてヒロシマ・ナガサキ以降、はっきりとあらわれた、文明化されたはずの世界の神話化・野蛮化という――ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺の全貌を調査した著書『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』でラウル‐ヒルバーグが「絶滅能力の絶えざる向上」という恐るべき言葉でもって述べたような――事態である。ヒクメットの「博愛」は、事柄の現象的側面をなぞるだけでそれを嘆くといった風のものにはとどまらないのである。オラトリオの第三章においてファジル‐サイが配置した「女の子」と「ヒロシマ」、そして「私たちはどこから来てどこへ行くのか」という三つの詩と音楽は、この破局の内実を段階的に明らかにする。

抵抗のビジョン

 ただし、以上のような洞察も、ヒクメットの求めたものが文明の撤回ではなく、コミュニズムによる真の文明化であることを忘れてはならないだろう。「私たちはどこから来てどこへ行くのか」の後半部分における「死にたくない」という言葉のリフレインに始まる転調は、前半部分における破局のビジョンに対するアンチテーゼである。オラトリオでは前半から後半への展開が朗読から合唱へと展開することで、その転調を際立たせている。「恋の悲しみ/病の悲しみ/別れの悲しみ/老いの悲しみ/それ以外は戸口から中へ入れてはならない」というパッセージは、自然の猛威に対するのとは異なり、「第二の自然」の猛威に対しては「戸口」に入れないという選択が可能であるということを指し示しているし、「藁の家には/二〇億人……パンは足りていない/書物も足らない」という詩節で人びとに必要なものとしてパンとともに「書物」という文明の産物を並置していることはヒクメットの主題が決して文明の撤回ではないことを示唆している。「私たちはどこから来てどこへ行くのか」の後半部において、こうした詩句は、「もし私たちが/パンと自由を求め戦うために生きることができれば」「私は呼びかける/書物と木と魚のために/一粒の小麦や米/陽の降り注ぐ小路のために/黒紫色の紙 小麦色の金髪 子どもたちのために」といった明確な抵抗のビジョンへと発展する。
 それ以上に、詩人と人類をとりまく神話的な諸力の支配と対照の関係にあるのが、第一章の最終節に配置された「ケレムのように」である。このヒクメットの詩があらわすのは破局をもたらす諸力からの解放をめざすたたかいの理念である。すなわち、「わたしが燃えなければ/あなたが燃えなければ/われわれが燃えなければ/いかに/照らされよう/この暗い/闇」「空気は大地のように妊んでいる/空気は鉛のように重い/叫ぶ/叫ぶ/叫ぶ/わたしは叫ぶ/さあ来なさい/鉛を溶かそう/私は呼びかける」という詩句は、詩人の時代を支配する諸力を象徴するイメージである「鉛」「闇」に対置された「鉛を溶かそう」「燃えなければならない」という呼びかけは、たたかいの理念を図解している。音楽との対位法的な関係のなかで激烈な調子で朗読される印象的な抵抗のビジョンは、神話的かつ破局的な諸力のビジョンとは対照をなすものとして、第二章以降により具体化される苦難の風景に対する詩人の勇気として、第一章の最終節で深く刻み込まれる。「ケレムのように」は、たとえば、ゲーテの長編小説『親和力』において、人間たちが生み出しながらも、かえってその人間たち自身の犠牲をもたらすようになった人工的な秩序に対して、本編の人びととは異なり、命がけの抵抗という「勇気ある決断」を行なうノヴェレ(長編に挿入された短編)「奇妙な隣同士の子どもたち」のように、そびえ立つ。
 ただ、ナーズム・オラトリオにおいては、つねに、破局をもたらす諸力の形象に対して、抵抗のビジョンが対置されている。それは一種の持続低音であって、こうした対置が行なわれるのも、第二章「獄中にて」の最終節として配置され合唱された詩「ブルサのお城」の冒頭で「恋人は、コミュニスト」と歌われるように、ナーズム‐ヒクメットが人間の産物による人間の犠牲という破局を「運命」として、「自然」として受け入れることを拒否するコミュニストとして詩を書いたからであり、ファジル‐サイがそうしたヒクメットの姿に忠実だからである。
 第三章の最終節における転回から続く第四章「故郷について」は、抵抗のビジョンの深化だろう。これに関しても下記の点を中心に、論じなければならない事柄が多い。――「国賊」「国民軍の死者たちよ」「呼びかけ」の劇的かつ破局的な調子(葬送行進曲からの移行として調性の規則から過度に逸脱する巨大な音の衝突)から、調性へと回帰する音楽を伴う「ふるさと」という語のリフレインが続く詩句「ふるさと」への展開をどうとらえるか。それを本当に「和解」と捉えていいのか。また、トルコ語から直訳すれば「反逆者」という意味をもつ詩作品「国賊」における「ヒクメットは国賊だ」という言葉の合唱によるリフレインがはらんでいるアイロニーがその中で果たす役割、楽曲の関係をどう捉えるか。何よりも、抵抗のビジョンと地続きになっている、詩句「生きることについて」の朗読・独唱・合唱と音楽、詩の意味構造をどう捉えるか。そして、最後に挿入されるオラトリオ冒頭の風の音の繰り返しが、状況の反復を示唆するのか、変奏であればどういう意味をもつのか。冒頭の風が嵐の前の静けさとしての予兆であったとすれば、その反復は決して「和解」の形象ではありえないのではないか。――こうした点については、時間が確保できればあらためて考えてみたいと思う。

バロックの遺産の活用

 オラトリオというバロックの遺産でもって、ヒクメットの詩にあらわされた生涯とその思想を伝えるサイの試みは特別の重要性をもっている。バロック期以降、対抗宗教改革としてカトリック教会の要請で普遍的理念を人びとに魅力的な仕方で伝えるための芸術形式が詩・演劇・音楽・絵画の各分野で発展したが、オラトリオもそのひとつである。その最大の成果物であるヘンデルの『メサイア』に体現されるように、音楽によって聖書の物語を立体的に構成して表現することがその目的だった。オペラのように大道具も派手な衣装も演技も使わないため、聴衆に集中を要求するものの、単なる視覚にしばられないイメージによる表現が可能になるのが利点である。その楽曲形式をヒクメットの詩における、「博愛」の、インターナショナリズムの理念を伝達するための媒体として活用しているのがファジル‐サイの『ナーズム・オラトリオ』である。
 日本初演を観た後に、トルコ・イスタンブールのフォルクスワーゲン・アリーナで2016年12月に上演された『ナーズム・オラトリオ』の動画も見ることができたのだが、そのうえで言えば、今回の日本初演は、オラトリオという楽曲形式を採用したファジル‐サイの意図がイナン‐オネル氏によるトルコ語和訳の存在もあって「再演」として成立した作品だった(会場が広すぎたせいで音響面で成功したとは言い難かったが)。
 ところで、社会主義者によるオラトリオ形式の活用は、ショスタコーヴィチの『森の歌』や、非常に特殊なヴァイスの劇作品『追究――アウシュヴィッツのオラトリオ』の上演などが以前にも存在した。ブレヒトの演劇におけるバロックの遺産の活用について、ベンヤミンは「中世とバロックの遺産をぼくらにまで伝えてきたルートは、むしろ密輸業者の道、抜け道というべきかもしれぬ。この間道が、荒れはてて草ぼうぼうの道とはいえ、こんにちのブレヒトの演劇につづいているのだ」(「叙事的演劇とはなにか」、出典前記)と記述しているが、天皇制的自然主義と結びついた新古典主義的文学観念にもとづいて「あるがままのもの」ないしは「原像」のようなものを物神化する日本的な芸術観に対抗するためにも、バロックの遺産の利用可能性という点については改めて検討すべき課題ではないだろうか。こうした文脈でも、今回のオラトリオにはたいへんな刺激を受けることができた。

(2022年9月21日記)