HOWS文学ゼミニュース No.6 2023630

                                      発行:HOWS文学ゼミナール

                                     HOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)


◇亀井文夫の戦争ドキュメンタリー映画『上海』上映会に参加を!(松岡慶一)…1

◇歴史エッセイ 北の人びと その2(渥美 博) ……………………………………3

◇槇村浩のプロレタリア・インターナショナリズムについて(杉林佑樹) …………15

◇詩の朗読会「三花繚乱」について
  詩の朗読会を企画して(松岡慶一)…………………………………………………25
  2023年春の夜の詩の朗読会「三花繚乱」に参加して(飯島 聡) ……………25

 詩
 散歩依存症(究極Q太郎)………………………………………………………………27
 ねずたちの入隊(都築直美)……………………………………………………………29
 人の形をした不燃物(斉藤光太郎)……………………………………………………31

亀井文夫の戦争ドキュメンタリー映画『上海』上映会に参加を!

 (松岡慶一)


 来たる8月(日時未定、後日チラシにて発表します)に本郷文化フォーラム(HOWS)ホールにてHOWS文学ゼミ主催の亀井文夫『上海』上映会を開催します。上映の主旨を『思想運動』2023年5月号「頂門一針」に書きました。以下です。

亀井文夫『上海』といま


 このところわれわれの住む日本社会はきな臭く戦争への道が敷かれていることをひしひしと感じる。特に中国に対する嫌悪が人々に広がり押し止めがたい勢いだ。いまの時代と1930年代後半の日本と似た空気が漂っているのではと思うところがある。
 亀井文夫の記録映画『上海』を1999年にHOWSの前身本郷文化フォーラムの映画講座で観たことがある※1。そこには中国を侵略する日本軍と中国軍の戦闘の傷跡が生々しく記録されていた。この映画(38年製作)は陸軍省、海軍省の後援で作られた37年「第二次上海事変」※2の戦争宣伝映画である。にもかかわらず、日本軍の侵略とそれに激しく抵抗する中国軍と民衆の姿が心に迫ってくる。宣伝のために日本軍が中国軍捕虜と孤児たちに優しく接しているところも写されている。だが、それは演出にすぎないことが、壊された民家、トーチカ、戦闘に利用した墓、迷路のような作戦通路は、中国軍と民衆の激しい抵抗の跡であることでわかる。至る所にある日本兵の墓標は彼らがいかに非道で無惨な戦争を戦っているかが伝わってくる。『日本ドキュメンタリー映画全史』※3で野田真吉は「民衆が戦争に関する具体的な情報を求めていたこととうらはらに戦争に対する不安や危惧、……厭戦的雰囲気が潜流していたこともあって、大きい反響をよんだ」と書いている。
 いま必要なことは、日本の民衆に戦争の真実をどう伝えるかに知恵を絞ることだ。

 ここに書いたように、戦争体制が着々と進められているいまの日本社会に生きている民衆はマスコミの虚偽の宣伝の洪水に晒されています。わたしたち民衆は生きるのに必死です。ですが平和に生きるための真実は隠されています。亀井文夫は記録映画『上海』で、戦争の真実がどのようなものであるかを、国策宣伝映画を逆手にとって伝えようとしました。わたしたちは亀井文夫に学び、真実を探り、伝えあう力を養おうではありませんか。
 上映会への奮っての参加を呼びかけます。

 「頂門一針」への注。

※1:1999年の本郷文化フォーラム講座とは『検証・戦時下の日本映画――戦争の傷跡、屈服・翼賛・抵抗の諸相』と題した一連の講座のこと。日中戦争の開始から太平洋戦争の敗北にいたる日本映画がどのように戦争を描いたのか、戦争にどうかかわったのかを根底的に検証し、迫りくる新しい戦争とファシズムの時代と闘いぬく表現と思想について考えようとする(当時のチラシの要約)講座として開催された。この20余年前の講座が開催された時代といまがどのように違うか、どのように時代が変ったかも上映会で考えたい。
※2:亀井文夫『上海』はその講座の3回目、講師は記録映画作家の土本典昭、その時に配布された資料が私の手元に残っている。土本典昭「亀井文夫『上海』から『闘ふ兵隊』まで」亀井文夫・土本典昭対談「ドキュメンタリーの精神」(両者とも『講座日本映画5』1987年、岩波書店)であり、興味深い内容である。
※2:「第二次上海事変」=1937年7月の盧溝橋事件後、日本軍は本格的な軍事行動を開始し、日中間の軍事衝突は拡大した。海軍陸戦隊の大山勇夫中尉らが中国保安隊によって射殺される事件をきっかけとして、近衛内閣は上海に2個師団の増援部隊を上陸させ、さらに8月には上海において日本軍は大規模な軍事行動を起こした。これを第二次上海事変と呼んでいる。9月初め、日本政府はそれまで使用してきた「北支事変」の名称を「支那事変」と改め、全面的な日中戦争への突入を政府として確認した。12月には日本軍は南京大虐殺を引き起こす(以上、Web版『世界史の窓』を参照した)。
 亀井文夫『上海』に出てくるシーンは10月〜11月、上海で戦火の一旦収まったあと撮られている。
※注3:野田真吉『日本ドキュメンタリー映画全史』(現代教養文庫、社会思想社、1984年)。本書は、戦前から戦後、1980年代初めまでの記録映画作家たちを列伝や名鑑ではなく「時代時代の歴史のなかに、記録映画作家たちがどのように生き、どのように状況にかかわって作品をうんでいったか、どのように自分の位相をみさだめ、苦闘したかを私が接触した作家たちや作品、それらにまつわった見聞などをもとにして、全体的な記録映画の歴史と対応しながら、とりあげた作家たちの個別的なイメージを私なりに書きとめよう」(本書より)としたものである。本書によって戦中・戦後の文化・芸術運動の歴史をより深く考えることができると思う。
 また、本書の亀井文夫の叙述を土本典昭の前出の資料の叙述と比べると、野田真吉は本書で亀井文夫の『上海』の編集現場に立ち会っているところを書いているが、土本典昭はその時小学生であり、「皇軍の常勝を信じた。」と書いている。この世代差は重要であり、自分自身の過去の戦争の主体的な受けとめともかかわっているので、上映会に向けてこのことを考えたい。


歴史エッセイ  北の人びと  その2

渥美 博

 

(四)東アジアのなかのエミシ

  森は私の家
  森は私の村
  だから私は守る
  〈森の破壊に抗議するアマゾン原住民の言葉〉
 
 『日本書紀』斉明5(659)年の記事によれば、その年遣唐使がエミシを唐に連れてゆき高宗に見せたとある。高宗と遣唐使の問答を『古代蝦夷の英雄時代』(工藤雅樹・平凡社ライブラリー)の口語訳を借りて紹介する。高宗は日本国の天皇とその統治のありさまを聞いた後、エミシについて質問した。
  (天子)蝦夷の国はいずれの方に有るか。
  (使) 東北にある。
  (天子)蝦夷は何種有るか。
  (使) 三種ある。遠方を都賀留(つがる)、次を麁蝦夷(あらえみし)といい、近いものを熟蝦夷(にきえみし)という。今回伴ってきたのは熟    蝦夷で歳ごとに本朝に入貢してくる。 
  (天子)蝦夷の国には五穀があるか。
  (使) 五穀は無い。肉を食して生活している。
  (天子)蝦夷の国には屋舎があるか。
  (使) 無い。深山のなかで樹木の下に住んでいる。
 遣唐使はエミシを化外の民であることをことさらに強調するために「肉を食している。」「家はない。」と答えたのであろうか。あるいはエミシについての認識がその程度のものであったのか。私どもがこうして貴国に入貢するように、本朝にも入貢してくるものがいるのですよと、小中華意識のプライドを示したつもりなのかもしれない。
 大化の改新(646)で、唐の律令制を手本として中央集権的国家建設の動きを早めたヤマト王朝は、エミシの実情を詳しく知るために越後守・阿倍比羅夫を北方に派遣した。比羅夫は日本海側を北上して齶田(あぎた・秋田)、淳代(ぬしろ・能代)のエミシを征討した(658年)。また660年には阿倍比羅夫粛(みし)慎(はせ)を討つ、の記事も年表に見えるから、エミシのさらに北方に住むオホーツク文化人であるかもしれないツングース系の人びととの接触があったことが明らかになっている。この年朝鮮半島ではヤマト王権と友好的関係にあった百済が新羅・唐軍の攻撃によって滅亡している。663年には百済の再興を期した日本と百済の軍勢が白村江で新羅・唐の軍勢に大敗を喫している。
 このように東アジアの情勢が緊迫するなかで、北方の備えのためにもヤマトはエミシの情勢を知る必要に迫られており、ヤマト朝廷に入貢するエミシを高宗に見せることによって、ヤマトの威信と力を示す必要があったのであろう。


(五)水田稲作農耕の東漸

 穀物としてのイネは相当古くからこの列島に伝わってきたもののようである。最近の研究ではイネのプラントオパールが岡山県の彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から大量に見つかっており、その他の縄文遺跡からもイネのプラントオパールが発見されている。縄文時代の農耕開始時期の議論が一層活発になっているようである。焼き畑などでキビ、ヒエ、麦類、ソバなどとともにイネも栽培されていた可能性がある。
 水田稲作は先にも書いたように一定の数の人たちの共同作業を必要とする。畑でイネが栽培されていたことの延長線上では考えられない。水田稲作のノウハウ、石包丁、鋤、鍬などの農耕用具、豊作を祈って行う春の予祝儀礼、害虫駆除を願う夏の虫送り、秋の収穫感謝祭までイネの成長段階に応じて営まれる農耕儀礼・祭祀を持った人たちの集団的な移住を前提とするのではないか。余談であるがこのエッセイを書いてきて、天皇制が弥生以来の農耕儀礼・祭祀に根差しているのを改めて強く感じた。ヤマトの末裔であるわれわれが天皇制から容易に脱却できない根源的な理由はこの辺にあるのであろう。
 自然を改変して、「木の実のなる大切な森を根こそぎ伐採して、そこに水路を引いて水田を造るという発想は、縄文からは出てこない。」「水田稲作の開始とは、単なる食糧獲得手段の変更にとどまらない、社会面や精神的な面までも巻き込んだ生活全体の大変革だった。」(『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎)のであった。約3000年前に水田稲作農耕民が北九州に渡ってきた時、列島に自然に働きかけ絶えずそこからより多くの生産物を引き出そうとする生産様式を前提とする弥生文化の歩みが始まった。
 水田稲作は前10世紀後半に九州北部に伝わってから約350年をへて近畿地方に伝わり、続いてほどなく伊勢湾沿岸地域に到達した。前3世紀になってから関東南部に到達した。一方で日本海側を北上した水田稲作前線は前4世紀前葉には津軽地方に到達した。青森県の砂沢遺跡、垂柳遺跡などで水田跡が発見されている。前4世紀代には仙台平野、福島県いわき地域でも水田稲作が始まった(前出『弥生時代の歴史』)。これによると関東南部よりも津軽や仙台平野のほうが水田稲作の開始時期が早くなってしまうが、藤尾氏の著述にしたがうことにする。これから新しい事実が発見されればまた違った結果になるかもしれない。
 例外的に北上盆地南部の胆沢地方に角塚古墳があるが、大型古墳の分布の北限は仙台平野である。水田稲作の北限と大型古墳の分布の北限は一致する。それじゃあ津軽の水田はどうなったという疑問がうかんでくる。古墳時代の寒冷化によって、ただでさえ水田稲作にとって気候条件の厳しい東北北部の稲作は途絶したもののようである。
 古墳文化の発生した地域には、水田稲作の生産関係の上に成立したヤマト王権の支配は比較的容易に進んだであろう。6世紀〜7世紀の前半、ヤマト王権の勢力は、日本海側は信濃川河口以南、太平洋側では阿武隈川河口以南(現在の宮城県亘理町)に及んでいた。王権はそれぞれの土地の最も有力な首長を国造に任命し、その地域の支配をゆだねた。国造は地域の産物の貢納、土木工事への労働力の提供、朝鮮半島の軍事行動への兵力の提供の義務を課せられた。
 大化の改新(645)によって成立した新政権は、国造制が及んでいなかった地域(さらに北にということである)に支配を広げるために城柵を作った。日本海側では647、648(大化3、4)年渟(ぬ)足(たり)柵(新潟市内・遺跡未発見)と磐船柵(新潟県村上市・遺跡未発見)を築き、さらに8世紀初めには山形県庄内地方に出羽柵が置かれた。太平洋側では渟足柵に対応する時期の城柵設置の記事は『日本書紀』に存在しないようであるが、仙台市西南部の太白区郡山にある郡山遺跡の最も古い官衙遺構がそれに該当するのではないかといわれている。8世紀に入ればさらに北方の仙台平野の中心に大野東人によって多賀城が築かれ(724年)、仙台平野の北部地域である大崎平野にまで大和王権の勢力が及んできた。
 城柵のおかれた地域には東北南部(福島県)や関東、中部地方から柵戸と呼ばれる移民が導入された。彼らは森や原野を切り開き、田畑を作り、水田稲作を広げた。エミシと柵戸の混在は様々なトラブルを引き起こした。森や森の周辺で狩猟採集を主な生業としているエミシにとって柵戸は彼らの生活空間を犯す存在であった。エミシはヤマトの民となって水田耕作民となるか、より深い森に入って彼らの生活スタイルを守って生きていくかの選択を迫られたのである。森深く分け入った人びとの末裔が「山人・やまひと」になったと柳田国男は言う(「山人考『山の人生』より」)。
 遣唐使のいう熟蝦夷とは、柵戸と混在するなかで、徐々にあるいは強制的に水田稲作農耕民へと変化させられていったエミシたちのことであろう。麁蝦夷は東北北部地方に住むエミシ、都賀留は津軽海峡をはさんで青森県と北海道渡島半島南部に住むエミシたちのことをさすようである。
 ヤマトの支配に従ったエミシの族長には「君」(後に「公」となる)の姓が与えられ、官位も与えられた。例えば後にヤマト王権に叛旗を翻した伊(これ)治(はる)公(のきみ)砦(あざ)麻呂(まろ)という人がいる。伊治は地名であり、公が姓であり、砦麻呂が名である。砦麻呂の官位は外(げ)従五位下である。
 7世紀中頃に作られた渟足・磐舟、7世紀後半に多賀城以前につくられた郡山遺跡の1期官衙遺構など、これらの城柵のある越後平野、仙台平野、米沢盆地といった地域のエミシがヤマト王権に反乱を起こしたことを伝える史料などは一切見いだせないようである。これらの地域では弥生時代以来の水田稲作農耕文化がそれなりに発展していて、大型古墳の造営がなされ、古墳文化の高揚もみられた。それゆえにこれらの地域のエミシはもともと関東、中部以西の国造制施行地域に住む人びととも本質的に変わらない農耕文化や信仰を持っていたと考えられる。渟足柵などの造営より半世紀ほど後の大宝律令施工段階(702)にはこれらの地域の人びとはもはやエミシとは称されなくなっていたようである。


(六)エミシとヤマト

 713(和銅6)年大和王権によって現在の宮城県北西部に位置する大崎平野に丹取郡が建てられた。建郡より1年半を経て「相模、上総、常陸、上野、武蔵、下野六国の富める民千戸を移して陸奥に配く」と『続日本紀』にある。陸奥のどことは書いていないが、多くの学者によって大崎平野であろうと推測されている(『阿弖流為』樋口知志)。
 当時の一戸は、血縁関係によって結ばれた数世帯によって構成されており、平均で二十人ほどである。関東からの移民は「富める民」とあるから二十人より多めに見積もることができ、千戸だと二万五千人〜三万人ぐらいに推定される(前出『阿弖流為』)。先住のエミシたちがどのくらいの数いたのかわからないが、先住民を圧倒するほどの数の人びとが関東から移されてきたのであろう。北米大陸の東海岸に上陸したヨーロッパ人が、先住民族の天地を奪いながら西へ西へとフロンテアを押し進めていったことを連想させる。
 大崎平野は古墳文化の北端の地であり、古墳寒冷期に東北北部に拡がった続縄文文化の南限の地でもあった。縄文的生活文化が濃く残っているこの地に、いきなり大量の移民を配することによってエミシ社会は崩壊の危機にさらされた。かなり強引にエミシたちの水田稲作農耕民化がはかられたのであろう。ヤマトの王権の支配下に組み込まれれば口分田が与えられるが、それとともに租庸調の義務が課せられる。かれらの生産物や毛皮などこれまでは交易品として自由裁量の内にあったものが調として召し上げられてしまう。水田稲作農耕民化は「単なる食糧獲得手段の変更にとどまらない、社会面や精神的な面までも巻き込んだ生活全体の大変革だった。」(前出『弥生時代の歴史』)。縄文的文化と弥生的文化の激しいせめぎあいがこの大崎平野で展開されたのではなかったか。
 エミシの自然観、宗教観を知るてだては今残されてはいない(と筆者には思える)。エミシは文字を持たなかった。エミシの口承物語も私たちの前に存在しない。エミシに関する記述はヤマト王権側からのものに限られている。遺跡に残されたものから考古学的に推理するしかないのであろうか。柳田国男のいう山人との関連でいえば、マタギの世界などにはエミシの精神世界がわずかであれ残されているのかも知れない(『古代蝦夷の英雄時代』の著者、工藤正樹は同書のなかで「マタギとは北は青森県から新潟県にかけての奥羽山脈を舞台に狩猟活動をくりひろげていた人たちのことである。彼らには、山に入った時に守らなければならないさまざまな禁忌があり、それを守らなければ山の神様の怒りにふれると考えてきた。マタギ言葉(山言葉)はその禁忌の一つであるが、そのなかに多くのアイヌ語と共通する単語が存在するのである。」と述べている。)。また東北地方にアイヌ語と共通する地名があることはよく知られたことであろう。エミシの言葉の影響を受けて成立したといわれる気仙語(気仙地方―大船渡市・気仙沼市・陸前高田市・住田市の方言)という存在もある。あるいは『遠野物語』をエミシ的、縄文的視点からとらえたらどうなるのであろうか。
 主に北海道を中心に展開した縄文→続縄文→擦文→アイヌ文化の流れがある。アイヌ文化は擦文文化を基礎として北のオホーツク文化、南の和人文化の影響を受けて成立したといわれている。アイヌは基本的に縄文的な狩猟採集を主な生業として引き継いでいる。アイヌ文化から逆照射して縄文的、エミシ的精神世界を探るのはあながち無理筋ではないであろう。幸いに明治以降、金田一京助やアイヌ人である萱野茂、知里幸恵などの尽力によってアイヌの古老から聞いた話が物語集としてまとめられている。
 アイヌの精神世界をさぐる前にアイヌたちの暮らしを知っておく必要がある。萱野茂の『アイヌの昔話』に収録されている「ひとつぶのサッチポロ」の最初の部分を少し長くなるが引用してみることにしよう。
   わたしは石狩川の中ほどに、父と母と、そしてわたしの三人で暮らしていたひとりのむすめでありました。父はたいへん年を取っているので、山  へ狩りにも行けず、川にたくさんいる小魚や鮭をとることもできません。
   わたしは、女でできること、春は山菜をとってそれを食べ、あるいは冬食べる分は、乾かして保存して、ふたりの年老いた親を養っていました。
   夏になると、うばゆりの根を掘ってきてはきれいに水で洗い、うすでつきくだいて、澱粉を取って食べたりしていました。
   澱粉を取った残り粕は、青草に包んで発酵させます。発酵したものは、直径十五センチメートルぐらいの大きな団子につくって干しておき、長い  冬の食糧にしました。寒い冬がきて団子を食べるときは、団子を水につけてやわらかくして、うすに入れてつき、もう一度団子につくって煮て食べます。
   そのように、季節ごとに食べ物を集めては、だいじに保存して、ほそぼそと暮らしていました。
 この物語のアイヌの娘の一家は、父が年をとって狩りに行けず、動物性たんぱく質に恵まれていないことを除けばアイヌの暮らしの典型的なありさまをよく表しているのではないか。別の物語では流行り病のために全滅した村で、一人生き残った娘が村を再生させるために、コツコツと一人で土地を耕し、粟やヒエなどさまざまな種をまく話がでてくるから、集落のまわりに小規模の畑は持っていたのである(金田一京助・荒木田家寿『アイヌ童話集』「流れてきた子どもの話」)。
 アイヌの自然観、宗教観はどのようなものであったか、中川裕の『〈改訂版〉アイヌの物語世界』(平凡社ライブラリー)を参照にして考えてみたい。『アイヌの昔話』に入っている「プクサの魂」という物語では、ある村の村長の妻が病気になったのはプクサ(行者ニンニク)をとるときに、一本も残さず、しかも根っこまで引き抜いてしまったためであるとされている。根こそぎ取ってしまうと来年の春に芽を出すことができず、プクサの神は死んでしまうと強く戒めている。
 アイヌの神たちは私たちの神と違って一段高いところに存在するものではないようである。神の世界は人間の世界と並行して存在する。クマにもプクサにも、あらゆる動物や植物に神は存在する。鍋など人間が使う道具にさえ神はいるのである。「こうしたカムイたちは、カムイモシ?では人間と同じ姿をしているといわれる。そして人間と同じように針仕事や彫刻をし、同じように結婚をしたり喧嘩をしたりしてすごしているのである。もっとも人間と同じすがたといっても、それは魂がそういう姿をしているので、人間の目には普通見えない。カムイたちが人間の前に姿を現すときは、それぞれよそいきの衣裳をつけてくる。たとえばクマの神であれば、肉を人間へのお土産として背負って、その上に立派な毛皮のコートを着てやってくる。」(『〈改訂版〉アイヌの物語世界』中川裕)。神から贈り物をもらった人間は、神のよろこぶ酒を醸し、神の大好きなイナウ(削り花、柳などの枝を削りかけにしたもの、幣帛)をたくさん作って持たせ、神の国に送り返すのである。そうすることによってクマのカムイはまたたくさんの土産を背負って人間世界に現れてくれるのである。こうした宗教観は自然の恵みのなかで生きる人間のありようをみごとにあらわしている。エミシたちもこういったアイヌの自然観、宗教観に近いもののなかに生きていたのではないかと思われるのである。
 八世紀の半ばを過ぎると、古墳寒冷期も収束し、東北北部へも水田稲作は広がっていった。しかしエミシたちは米作オンリーの生業にはしなかったに違いない。前述のように近世になっても盛岡藩は絶えず凶作にみまわれた地域である。それどころか近代になっても「おろおろ歩く」「寒さの夏」(宮沢賢治「雨にも負けず」)にしばしば襲われる土地柄なのである。狩猟採集漁労、畑作、水田稲作と多角的ななりわいをエミシたちは選んだであろうと思う。エミシたちは簡単にはヤマトの生産様式や文化を受け入れなかった。東北北部の入口の地点で縄文→続縄文の潮流と弥生→古墳→大和王権の勢力がはげしくせめぎあった。


(七)北上盆地

 720年大崎平野周辺のエミシたちが大規模な反乱を起こした。
  陸奥国奏して言さく、「蝦夷反(そむ)き乱れて按察使(あんぜちし)正五位上上(かみつ)毛(け)野(の)朝(あそ)臣(ん)広人(ひろひと)を殺せり」とまう  す。(『続日本紀』養老四年九月丁丑条)。
陸奥の国の最高の行政官を殺してしまったのである。数カ所の官衙施設も焼き討ちにしたらしい。反乱は陸奥の国にとどまらず隣の出羽の国でも起こっている。反乱の鎮定には数か月を要した。さらに724年には海道エミシと呼ばれる陸奥の国の太平洋沿岸地域に住むエミシの反乱がおき、陸奥の国の高官の一人が殺された。海道エミシの反乱を鎮めると同時に、ヤマトの王権は東北地方の体制を強化するために多賀城を創建(724年)した。
 724年のエミシ反乱の後、約50年間ヤマトとエミシの間の闘いは起こっていない。エミシの頑強な抵抗にあってヤマト王権は、エミシ社会に対して城柵の造営や郡制の施行を強行して支配領域を広げるのではなく、エミシ族長らと朝貢・饗応関係を取り結ぶことを通じて、エミシ社会への影響力の拡大をはかる方式に転換したのであろう。
 しかし、八世紀後期になって、大和王権はこの均衡線(国境)を踏み越えて759年に陸奥国の北上川東岸に桃生城(宮城県石巻市)を、出羽国に雄勝城(遺跡未発見、秋田県横手市雄物川町か)を造営し、767年には陸奥国伊治城(宮城県栗原市)を相次いで造営した。エミシの領域である北上川の東岸に桃生城を築くことでヤマトは北上川水運を支配し、太平洋沿岸地域への支配を強化しようとした。出羽地方と北上盆地をつなぐルートとして古くから開かれていたのは、現在の横手市と北上市をつなぐ和賀川沿いの道(現在のルート107)であった。雄勝城はその街道を出羽側で抑えるものであった。その両城から8年後に造られた伊治城は大崎平野と北上盆地の最南部、磐井地方を結ぶ街道(現在のルート4)の大崎平野側に造られた。狙いは明確である。エミシの本拠地北上盆地の制圧である。エミシは反発した。774年、海道エミシの桃生城襲撃を発端に、その後足かけ38年間に及ぶヤマト王権とエミシ社会の長い戦いの火蓋が切って落とされた。
 北上盆地はエミシの世界である。ヤマトを入れるわけにはいかない。
 北上盆地は木の葉の形に似ている。葉元から葉末までまっすぐに伸びる主葉脈が北上川であり、そこから左右にのびる幾本もの支葉脈が北上川に流れこむ支流群である。北上盆地は東の北上山地、西の奥羽山脈から流れ出す無数の支流が作りだした扇状地の集合体であるといえるだろう。現在、東北新幹線で北上盆地を通過すると左右に水田が大きく広く広がっている。南流した北上川は一関で山地にぶつかり東南に向きを変え狭い山地を抜けて、仙台平野に出て石巻で仙台湾にそそぐ(旧北上川)。北上盆地は四方を山で囲まれた要害の地なのである。
 774年7月、海道エミシが桃生城を襲撃し、城の西郭を破った。この年、夏から秋にかけて陸奥の国で騒乱が相次いだ。按察使大伴駿河守率いるヤマト軍が海道エミシの拠点遠山村(登米市登米町か)制圧し、多数のエミシが投降した。
 ヤマト朝廷では770年称徳女帝が没し、光仁が後を継いだ。称徳、道鏡政権と近かったエミシとヤマトの利害の調停者であったみちのくの覇者、道嶋宿禰氏の嶋(しま)足(たり)、三山(みやま)は光仁から遠ざけられた。耕作地に恵まれない、海に依拠する三陸海岸のエミシにとって、たとえば特産品である昆布と穀類・布類との交換比率が大きく変われば死活問題である。海道エミシの蜂起の原因はこの辺にあるのではないだろうか。エミシ側の利害にも配慮する道嶋嶋足・三山の凋落は大きかった。「譜代の大族長たちを頂点とする蝦夷社会の側に、自分たちの既得権を侵害し、不公正な交易を強いて損害をもたらす国家側の諸勢力に対する不満・反発が急激に醸成されていったという可能性は大いにあるように思われる。」(『阿弖流為』)。
 776年5月、志波村のエミシ軍が蜂起し出羽国軍を破った。北上盆地北部の志波村は盛岡市の南東に拡がる地域で、雫石川と北上川の合流点の南側の地域である。この地域には当時、大規模なエミシの集落がたくさんあり、志波村エミシ譜代族長家が集団をまとめていた。攻め込んできたのを破ったのか、出羽国軍の根拠地、雄勝城を攻めたのか判然としないが、4000人のヤマトの軍勢を破ったのである。
 同年11月、陸奥の軍が北上盆地の南部の胆沢地方に侵攻した。胆沢は奥羽山脈から流れ出す胆沢川と北上川の合流点の南に広がる地域であり、北上川をはさんで西に広がる江刺と並んで北上盆地南部のエミシの拠点となる集落群である。譜代の族長家である胆沢公一族がこの地を束ねていた。ヤマトの軍は胆沢の族長たちが志波と結んでいたのではないかと疑って侵攻したのかもしれない。
 後にエミシ軍を率いてヤマト軍と戦うことになる阿弖流為は胆沢地方の族長家、大墓公家の人間である。大墓は「たも」と読む。北上川の東岸に田茂山がある。大墓は田茂山に由来するらしい。「公」はヤマトから与えられた姓であり、大墓一族も表向きはヤマトと良好な関係を持っていたのであろう。阿弖流為は侵攻してきた3000のヤマトの大軍を目の当たりにしてどう思ったのだろうか。
 大墓公一族は北上川の両岸に勢力をもち、北上川水運の管理者の役割をヤマトから委ねられていたのではないかと『阿弖流為』の著者樋口知志は推測している。北上盆地の産物はことごとく支流から本流をへて胆沢の田茂山の対岸にある「日上の湊」に集まってくる。それだけではない三陸海岸も北部の海産物は北上山地を越えて北上川の流れに乗ったのではなかろうか。北海道の産物も陸奥湾の野辺地、あるいは八戸あたりから、中山峠(十三本木峠)越えの北のルートを通って、北上川水系にやってきたのではないか。出羽の産物も一部は奥羽山地を越えて北上川に運ばれてくる。ここでヤマト側の産物と交換されるのである。胆沢地方は五世紀代より南北間交易における拠点地域であった。明治になって鉄道が通るまでは北上川は物資流通の大動脈であった。
 権力の境界では古来、どこでも辺境の内と外との交易が盛んにおこなわれてきた。馬や鷹、砂金、薬草、熊の胆や鹿の尾(漢方薬の材料)など、貴重、希少品は城柵、地方官衙で行われた朝貢儀礼の場でエミシ側からヤマト側に渡され、服属儀礼の貢納物とされた。ヤマトからは反対給付として米や狭布(東北の民が調として国家に納めた幅の狭い布)や威信財(刀や絹織物などか)が渡された。朝貢という公式の交易の外に「民間交易」が盛んに行われた。  エミシ側からはアシカの皮、独?(どくかん)(オオカミ、野犬、キツネなど? あるいは鹿も含むか)の皮、砂金、昆布類、熊の皮などなど、ヤマトの側からは鉄製品、繊維製品、須恵器、コメ、酒、塩などが交換された。ヤマトの品物はエミシの側でも生活必需品になっていたのである。
 ヤマトの貴族の間では熊の敷皮は威信財として重宝されていたようである。熊の皮の上に座っていれば強そうに見えるではないか。本州のツキノワグマよりもでかくて迫力のある北海道のヒグマの皮の方がより珍重されたに違いない。東北の官衙の役人は出世のために、あるいは都へ早く帰るために、盛んに私交易をおこない中央の貴族に交易で得た貴重品を贈った。役人風を吹かせて利をむさぼり、エミシたちの反感を買うといった側面もあったに違いない。


(八)呰(あざ)麻呂と阿弖流(あてる)為(い)

 780(宝亀11)年、光仁帝は北上盆地に「跋扈」する山道エミシを制圧すべく覚?(かくべつ)城(遺跡未発見だが胆沢地方の南、磐井地方、一関周辺ではないかと推測されている。)築造の勅令を発した。エミシの世界、北上盆地にヤマトが城柵を築こうとしている。エミシ世界の死活問題である。
 しかし、造営開始まもなく築城工事に携わっていた伊治公呰麻呂が反乱を起こした。結局、覚?城は作られなかったのかもしれない。呰麻呂は大崎平野の栗原地方(伊治は栗原である)に勢力を張っていた譜代エミシ族長である。呰麻呂は伊治城造営のとき道嶋三山のもとで在地社会側の代表者として積極的に協力した。城はわずか三旬の内に完成したと記録に見えるから、一か月以内に完成したことになる。呰麻呂の功績は大であるといわざるをえない。
 覚?城建設の督励に陸奥出羽按察使・参議、紀広純、陸奥介大友真綱、牡鹿郡大領道嶋大盾(大盾は道嶋一族であるが嶋足・三山と違ってヤマトにベッタリであったらしい)が軍をひきつれて伊治城に入った。伊治郡大領の呰麻呂は突如反乱を起こし按察使の紀広純と道嶋大楯を殺害してしまった。釜石生まれで盛岡在住の小説家高橋克彦の『北の妖星アテルイ 火怨』(講談社文庫上・下)は冒頭でこの事件を描いている。これまでヤマトに忠実であった呰麻呂はなぜこのような大事件を起こしてしまったのか。広純や大楯のエミシに対する差別、侮辱に嫌悪感を抱いており、その感情が爆発したという説がある。しかし、それだけではないような気がする。圧倒的な武力を持つヤマトを前にして、自分たちの生活や文化を守るためには面従腹背の道しかない。境界に生きる人びとの宿命である。しかし、北上盆地にヤマトの拠点を造られてしまえば、侮辱を耐え忍んでまで守ろうとしてきたエミシの社会や文化が消滅してしまうという危機感を持ったのではなかろうか。アイデンティティー喪失の危機感が呰麻呂を突き動かした。呰麻呂は攻め進み、多賀城に入り官の武器や軍糧を奪い、城を焼き払った。その後、呰麻呂はどこへともなく姿をくらまし行方は杳としてわからない。
 ヤマトの朝廷に衝撃が走った。按察使を殺されてしまったのである。覚?城建設も不可能になった。光仁はただちに征夷の勅令を発した。しかし、きつく征夷をせかされても、焼失した多賀城の修復、奪われた軍糧・武器の補充に追われ軍を発するまでには至らなかった。持節征東大使藤原小黒麻呂は10月下旬に「今年は征討すべからず」と上奏してしまった。雪の積もる冬に北上盆地に兵を出すことは自滅を意味する。
 これに対して光仁は「夏は草茂しと称(とな)え、冬は襖(あお)乏しと言う。巧言を縦横(ほしきまま)にして、遂に稽留(けいりゅう)を成す。」(襖は袷の衣、綿入れもある、防寒着のことである。)となんだかんだと理由をつけて出兵しない現地指揮官に怒りをぶつけている。
 翌781(天応1)年2月、光仁は雪解けを待って北上盆地に攻め込むために坂東六国に対して軍糧、10万石の穀の供出を命じた。3月から5月にかけてヤマトの軍は「征夷」の軍事行動をおこなったようである。持節大使小黒麻呂の軍事行動の報告を読んだ、4月3日に即位したばかりの新帝桓武は、「勅」のなかで「彼の夷俘(いふ)の性(さが)と為ること、蜂のごとくに屯(むらが)り、蟻のごとくに聚りて、首(もと)として乱(らん)階(かい)を為す。攻むれば則ち山(さん)藪(そう)に奔(はし)り逆(しりぞ)き、放(ゆる)せば則ち城塞(じょうさい)を侵し掠(かす)む。」と述べているところから察するにエミシ軍は地の利を活かしたゲリラ的な戦術にたけていたようである。さらに、エミシの馬はヤマトの武士たちが欲しがるほど優秀である。エミシたちの馬を駆使した戦闘は「疾(はや)きこと風の如く」(「風林火山」)であったのであろう。
 小黒麻呂は数万の軍勢で攻め込みながら、エミシの首をわずか70余あげただけで軍を解散してしまった。もちろん桓武は叱責した。しかし、桓武は怒るばかりではなかった。桓武は「征夷」が容易でないことを軍状報告から学んだ。ここから数年をかけて次の「征夷」のために準備するのである。
 桓武はやる気満々の天皇だったようである。中国で古来より革命が起るとされていた辛酉の年に即位した桓武は自ら新王朝を造るという意識を強く持っていた。桓武の野望は生母高野新笠が百済の亡命民の出であり、出自が卑しいことに対するコンプレックスからきているのではないかと言われている。出自の卑しさは権力基盤の弱さにつながっていく。権力基盤の強化のためには強いリーダーシップが必要である。桓武の意志は新都建設と「征夷」に向かっていくのである。
 桓武の「やる気」はエミシ社会にも伝わってくる。危機感を持った北上盆地のエミシの族長たちは協議を重ねた。エミシ社会には統一的な権力は存在しない。大連合を組織して、連携して立ち向かおうという機運が生まれてきた。大連合を統帥するにふさわしい人物は誰かということになる。族長たちの誰もが納得する人物でなければならない。ヤマトが北上盆地制圧の最初の地として狙ってくるのは胆沢地方である。胆沢はエミシ社会を守るための生命線となった。そのような状況の中で胆沢地方の有力族長の一人である阿弖流為は選ばれたのであろう。大墓公一族は日上の湊で南北交易の管理の役目を担っていた。阿弖流為は交易を通じて各地の族長たちと顔がつながっていたであろう。そういう意味からも阿弖流為はリーダーとしてふさわしかったのかもしれない。当時の阿弖流為が何歳であったかは不明である。20年後、802年に処刑されたことが事実としてあるだけである
 788(延暦7)年7月、紀古佐美が征東大使に任命され、桓武から節刀が授けられた。翌、789年3月多賀城に集結したヤマトの軍勢は進軍を開始し、北上盆地に入り、磐井地方と胆沢地方の境を流れる衣川の北岸の高所に前軍・中軍・後軍の三軍に分けて布陣した。ここから胆沢平野は一望できる。
 この時のヤマト軍の総兵数は5、6万人から10万人の大軍勢ではなかったかと推測されている。東海、東山、坂東諸国には5万2800余人の動員が命じられた。地元、陸奥の兵を合わせれば10万人もあながち誇大ともいえないであろう。この大軍勢は「河道」「陸道」「海道」といくつかの進路に分かれて進んだ。「海道」軍は三陸海岸を進んだものであろう。エミシを一気に殲滅せんとするヤマトの本気度が伝わってくる。8世紀末に本州の北の地域にヤマトに対抗する強大な勢力があったことをわれわれは銘記しておくべきであろう。
 衣川に陣を構えた、2,3万人ほどの胆沢遠征軍は動かない。軍糧をいたずらに費やすのみである。痺れをきらしていた桓武は、征東大使紀古佐美の上奏に接して、ただちに出撃すべきことを強く促した。「久しく一処に留まりて、日を積み粮を費やす。朕の怪しぶ所、唯此(ここ)に在るのみ。」(5月12日の征東大使への勅)。
 圧倒的な軍事力を持ちながらヤマト軍はなぜ躊躇したのであろうか。ヤマト軍の首脳部の間で積極的武力討伐の立場をとる征東副使、佐伯葛城と「懐柔による征夷」派の鎮守副将軍、安部?嶋墨縄、同池田真枚の戦略上の深刻な対立があった。領土拡大派と交易重視派の対立といってもいいであろう。陸奥の鎮守府の大きな仕事の一つは交易である。エミシとの関係を良好に保つ方がいいに決まっている。墨縄も真枚も軍人だが鎮守府の官僚なのである。「武闘派」の葛城が現地で急に亡くなってしまった。進軍の主力エンジンがなくなってしまったのである。これが停滞のひとつの原因であろう。
 ふたつめとしてエミシ軍の強さということがあげられる。北上盆地全体のエミシ軍は最大限集めて4,5千人というところであろう。しかし、地の利を生かしたゲリラ戦は侮れない。優秀な馬と狩猟民として身に着けた弓矢の技術がある。彼らは権力によって強制されて集まったのではない。エミシ社会喪失の危機感にかられて村々から自発的に集まってきたのではないだろうか。エミシの社会はまだ軍を養うほどの経済力を持っていない。エミシ各自の武器や兵糧は彼らが所属する村落が賄ったものであろう。そういう人たちは強い。そううっかりとは踏み込めないのである。
 三つ目として北上盆地の地理的条件がある。先にも書いたが北上盆地は四方をぐるりと深い山で囲まれている。ヤマト軍の総帥、紀古佐美は大崎平野の玉造の塞に本陣をかまえている。補給路は宮城県と岩手県の境をなす山地を越えていくか、北上川をさかのぼる水運に頼るしかない。この狭い通路を使って膨大な軍糧をたえず現地の軍に届けなければならない。たとえ胆沢を落とせても盆地中部の和我や北部の志波は奥深い。補給路を断たれたら軍は壊滅するのである。
 軍の長期滞留を責め、即時進軍せよとの桓武の勅が征東大使紀古佐美に届くと、古佐美は衣川の遠征軍にただちに進軍せよと命じた。中軍・後軍4000人は北上川を渡り東岸を北上した。前軍2000人は西岸を北上する。エミシ軍の総帥阿弖流為の根拠地、巣伏村で前軍は北上川を渡り、合流して総攻撃にかかる作戦であった。中・後軍が巣伏村に近づいたとき、エミシ軍300人余の襲撃をうけた。戦闘はヤマト軍の有利に展開しエミシ軍は引きあげた。巣伏村に至って前軍と合流しようとしたが、前軍はエミシ軍に阻まれて川を渡れない。そこへ800人ほどのエミシ軍があらわれた。急をつかれてヤマト軍が押され退いたとき、東の山からエミシ軍、400人ばかりがあらわれて退路を断たれた。エミシ軍の戦術にまんまとはまってしまったのである。北上川と北上山地に挟まれた隘路で挟み撃ちにあったヤマト軍の多くの兵士が重い兜をかぶったまま川に飛び込み溺死した。ヤマト軍の戦死者25人、矢に当たって負傷したもの245人、溺れ死んだ人1046人、裸になって泳いで助かった人1257人と散々な目にあってしまった。エミシ軍の死者は89人、焼き払われた村落は14か村、800余棟。勝利したエミシ側の被害も少なくはなかった。
 延暦8(789)年の史上有名な胆沢の合戦はヤマト軍の大敗に終わった。報せを受けて愕然とした桓武はただちに第2回胆沢遠征の準備に入った。 延暦13(794)年、第二回胆沢遠征(この年は平安京遷都の年である。)、延暦20(801)年、第三回胆沢遠征と立て続けに大軍による攻撃をうけて、多くの村を焼かれ、田畑は荒廃し、食糧難に陥り、兵士の大半を失い阿弖流為らは抵抗の術を失った。阿弖流為はこれ以上戦いを続ければエミシ社会を根こそぎ失ってしまうのを恐れたのだと思う。エミシの戦士500余人を率いて阿弖流為と母礼(もれ)は軍事・行政の全権を掌握する坂上田村麻呂のもとに投降した。高橋勝彦の小説『火怨』によれば、彼らはエミシ社会に一定の理解と同情を持つ田村麻呂にエミシ社会の後事を託したとされている。
 延暦21(802)年7月、田村麻呂は二人を従えて上京し、胆沢の安定には二人の協力が必要である、と助命嘆願を行ったが「申請に依りて(二人を)奥地に放還すれば、所謂(いわゆる)虎を養いて患(うれい)を遺(のこ)すなり」と却下された。8月、河内の国植山で二人は斬刑に処された。
 802年、坂上田村麻呂は北上川と胆沢川合流付近右岸上に胆沢城を造営した。同時に東国から移民4000人を入れた。鎮守府が国府多賀城から分離して胆沢城に移された。続いて翌年、田村麻呂は胆沢城の北60キロの北上川と雫石川の合流点右岸に志波城(盛岡市西郊)を造営した。北上盆地は全体がヤマトの支配に組み込まれた。
 7世紀半ば過ぎから温暖化が始まり、東北北部地域も水田稲作が可能になり、畑作もあいまってエミシの社会も続縄文的世界から農耕社会化していった。ヤマトの社会は米本位社会である。米は権力の基盤である。水田稲作が可能になった時点で東北北部は皮肉にもヤマトの領土拡大の対象地域になってしまったのである。
 ヤマトの支配に組み込まれてしまったが、北上盆地を中心として安部氏→清原氏→藤原氏と大豪族が登場し、ヤマトとはまた違う独自の社会、文化を築いてきたことも事実であろう。12世紀末に鎌倉武家政権が誕生し、奥州藤原氏が滅びるまで北上盆地を中心にエミシ的精神世界は続いていたのではなかろうか。


〈天皇制・日本帝国主義に抗した詩人〉
槇村浩のプロレタリア・インターナショナリズムについて
――詩作品「生ける銃架」への注解 
                                                 杉林佑樹

 槇村浩の詩作品「生ける銃架」についての注解であるこの文章はもともと2017年頃に執筆したもので、2022年が槇村浩生誕110周年だったこともあり、その年末に多少の改稿をして少数の友人のみに配布したものである。現在、わたしは、槇村浩の詩およびそれに依拠する本稿の論理については、侵略・植民地支配という条件下における抑圧民族―被抑圧民族の利害関係の捉え方に対して、一定の留保をもっている。しかし、本稿で紹介している槇村浩のビジョンは近代日本の詩人ではもっとも徹底したインターナショナリズムに貫かれたものであり、多くのエネルギーをこんにちのわたしたちにも与えてくれるものであって、以下の原稿はその説明に比較的成功していると考えている。それゆえに『HOWS文ゼミニュース』編集部の要請もあり、掲載させていただくことにした。【筆者】

 以下で注解を行なうのは、1931年10月24日に執筆され、1932年2月5日の『大衆の友』創刊号に掲載された、槇村浩19歳の詩作品「生ける銃架――満洲駐屯軍兵卒に」※1である。槇村浩(1912‐1938)は高知における社会主義運動によって官憲に拘束され拷問、非転向を貫いたものの拷問の影響が祟ってわずか26年の生涯を閉じたプロレタリア詩人である。私見の及ぶところによれば、日本近代の歴史のなかでもっとも原則的に日本帝国主義と対決した詩人であり、「生ける銃架」は9・18事変以降の日本帝国主義者による中国東北部全面侵略という事態をまえにして(?介石の対日和平路線による中国人民への敵対行為の存在も前提にしつつ)書かれた詩である。注解に使用するテキストは基本的に『間島パルチザンの歌――槙村浩詩集』(新日本出版社、1964年)であるが、ただ、連分けについてだけは説明を簡単にするためにも、『槇村浩全集』のものに基づいている。全集版は伏せ字・旧字体などをそのままにしてあるため読み物として単純に読みにくく、槇村のことについて詳細かつ正確に把握する役割をもった研究者の研究には役立つかもしれないが、槇村の詩をこれから読み、その険しくも豊かであるインターナショナルなビジョンのなかに入っていこうという人には不向きである。そもそも実際にある時期、槇村浩が読まれたのは詩集版を通してであり、芸術における重要な役割である真理内容の伝達を、ある意味で、全集版のもの以上に果たしているのがこの詩集版だからである。そのため、この注解は、詩集版の詩を読み、槇村浩のビジョンの豊かさや深さを多くの人に味わってもらう助けになることを目的にしている。

 「生ける銃架」の第一連で詩は読む者を、侵略軍による進軍のビジョンの中に導き入れる。

「高梁の畠を分けて銃架の影はきょうも続いて行く/銃架よ、お前はおれの心像に異様な戦慄を与える――血のような夕日を浴びてお前が黙々と進むとき/お前の影は人間の形を失い、お前の姿は背嚢に隠れ/お前は思想を持たぬただ一個の生ける銃架だ/きのうもきょうもおれは進んで行く銃架を見た/列の先頭に立つ日章旗、揚々として肥馬に跨る将軍たち、色蒼ざめ疲れ果てた兵士の群――/おおこの集団が姿を現すところ、中国と日本の圧制者が手を握り、犠牲の鮮血は二十二省の土を染めた/(だが経験は中国の民衆を教えた!)/見よ、愚劣な軍旗に対して拳を振る子どもたちを、顔をそむけて罵る女たちを、無言のまま反抗の視線を列に灼きつける男たちを!/列はいま奉天の城門をくぐる」

 「銃架」というのは小銃などを立てておくための器具のことであって、道具、物である。副題に「満洲駐屯軍兵卒に」(兵卒とは最下級の軍人のことを指す)とあるように、ここで「銃架よ、お前は」と呼びかけられている対象は中国侵略日本軍の兵卒である。アポストロフィ(頓呼法)によるこの「銃架」としての兵卒への問いかけこそが、この詩作品の骨格を形成している。そして、この冒頭の箇所では、「お前の影は人間の形を失い」「思想を持たぬ」といった表現に注目すれば、媒体として銃架という比喩を使用して、主意としての、自身の階級的利害とは何ら結びつかない日本帝国主義の反革命侵略戦争のために動員されているのにもかかわらず、それに従順であり加担してしまう日本人「兵卒」のあり様について、プロレタリア詩人特有の怒りをこめて形象化するものだと理解できるだろう。
 しかしながら、主意と媒体の相互作用を両者の類似ということに限ってはならない。そこでは両者の隔たりも作用する。槇村が「銃架」という言葉を使用する際も、その迫力の背後には、人間である兵卒と機械である銃架との非類似、人間は道具であるべきではないという含意、などの働きがある。実際、ここにはこの問題にかかわる、色彩イメージの対照が存在する。一方に、「血のような夕日」に発する一連の連続的なイメージがある。すなわち、近似した色をもつ「血」と「夕日」の直喩による結合、夕日の「日」と結びつく「日章旗」、それが姿を現すことで発生する「犠牲の鮮血」、そして、「きょうも」「きのうもきょうも」という侵略戦争に付き従い従軍を続ける兵卒の姿をあらわす言葉もまた、「日」の運動の性質と結びつく。この血とヒノマルの一連の色は野蛮な侵略軍の行軍のイメージなのである。それは状況を支配するイメージである。しかし、他方、対照的なイメージがひとつあって、それは、「色蒼ざめ疲れ果てた兵士の群」という兵卒の表情である。ここでの行軍する兵卒の表情のクローズアップは、兵卒が侵略戦争の単なる道具としては還元しきれないことを、暗示している。「兵士の群」は、「日章旗」と「将軍たち」とともに同じ行に倒置されているのだが、その沈んだ姿はほかの二つの事物から孤立している。このように周囲の状況と兵士の青ざめた表情とを対置することは、同時期の1932年4月に『赤い銃火』で発表された詩作品「出征」における「祝福された兵士たちの何と顔色の蒼いことか」というパッセージでも行なわれており、槇村の詩においてこうした仕掛けは意識的である(この冒頭だけでも槇村の詩がけっして大味なものではないことを理解できるのではないだろうか)※2。要するに、第一連の前半部分においては、周囲の状況と兵卒とのあいだに、ひそかに、見えにくいかたちで対立ないしは矛盾が存在しているのだが、ダッシュで区切られた後半部分で、その内実が明らかになる。

「――聞け、資本家の利権屋の一隊のあげる歓呼の声を、軍楽隊の吹奏する勝利の曲を!/やつら、資本家と将軍は確かに勝った!――だがおれたち、どん底に喘ぐ労働者農民にとってそれが何の勝利であろう/おれたちの唇は歓呼の声を叫ぶにはあまりに千乾びている/おれたちの胸は凱歌を挙げるには苦し過ぎる/やつらが勝とうと負けようと、中国と日本の兄弟の上に弾圧の鞭は層一層高く鳴り/暴虐の軛は烈しく喰い入るのだ」

 すなわち、周囲の状況から浮いた兵士の徴候的な表情の背後にあるのは「資本家と将軍」―「労働者農民」という、より大きな資本主義世界体制における客観的な対立構造なのである。当然、ここでの「おれたち」には、「将軍」とは異質な立場にある満洲駐屯軍兵卒(最下級兵士)も含まれると考えられるだろう。「民族的利害」などと言いくるめられた労働者農民が戦争に従事させられているにしても、結局のところそれは資本家や軍部をはじめとする支配階級の帝国主義的利害を実現するための犠牲を強いられているにすぎず、客観的には兵卒も、あるいはみずからの労苦と犠牲を前提にした軍隊に従軍させられている兵卒こそ、帝国主義を不?戴天の仇としているのである。この客観的な利害関係があるがゆえに、つねに対立ないしは矛盾は存在する。前半部分でかすかに垣間見える対立もその客観的な対立関係の存在ゆえである。どれだけ進軍しようとも、それは兵卒の勝利ではなく、資本家と将軍の勝利でしかないのである。こうした点でも、槇村の詩のビジョンは緻密であり、従軍する兵卒を取り巻く客観的な諸関係とその下での兵卒のありかたを注意深く捉えている。そして、この対立は「中国と日本の兄弟」―「鞭」というもう一つの対立へと接続できそうである(両人民は日本帝国主義のそれとは対立するという意味で客観的な利害関係で結ばれているのだからとして)。しかし、槇村はこの第一連で形象化したビジョンを、第二連で否定する。「中国と日本の兄弟」は客観的には兄弟であっても、兄弟ではない。ここに槇村浩の詩におけるインターナショナルなものの見方の根幹がある。

 「彼は地上に倒れ、次々に突き刺される銃剣の下に、潮の退くように全身から脱けて行く力を感じ/おとろえた眼を歩哨の掲げた燈に投げ/裂き捨てられた泥に吸われた伝単を見詰め/手をかすかに挙げ、唇を慄わし/失われゆく感覚と懸命に闘いながら、死に至るまで、守り通した党の名をとぎれとぎれに呼んだ」

 中国共産党に属してビラ張りをしていたと思われる労働者(当時の中国東北部には朝鮮人の中国共産党員も多く、「間島パルチザンの歌」などで槇村もその事実は抑えていたが、この詩では中国人を前提としているように見える)が、とぎれとぎれに「中、国、共、産、党、万……」と呼びながら、日帝「銃架」の銃剣によって殺害される第二連以降の詩句の展開はこうした楽観を許さない。客観的な絆がそのまま史的現実における絆となるわけではないのである。つまり、客観的な利害関係で結ばれていたとしても、それだけでは不足しているのだ。第二連がこれで終わり、第三連における「――秋。奉天の街上で銃架はひとりの同志を奪い去った」と接続されるが(二重ダッシュによる区切りは厳粛な印象を与える)、日本帝国主義軍の「銃架」はそのビラ張りの労働者を殺したのである。
 この箇所をめぐっては、ビラの内容がいかなるものか、そもそもこれはだれに向けて貼ろうとしていたのか、という問いが成り立つし、それが殺した側と殺された側との関係をどう考えるかというこの箇所の読みの根幹に関っている。というのも、ビラが日本人兵卒に訴えるものなのか、中国人民に訴えるものなのかは、詩のなかで曖昧さ(アンビギュイティ)を構成しているからである。内容については第二連の二行で「反戦の伝単を貼り廻して行った」(全集版では「反×」は「反日」とされている)とされているとしつつ、配る相手についても、第三連ではこのビラは「帰りゆく労働者のすべての拳の中に握りしめられたビラの端を見た……残された同志はその上へ次々の伝単を貼り廻すであろう」と言われ、中国人とおぼしき労働者の手に渡ったものとされている点を取り上げて、この曖昧さを解決できる(あるいは問題にはならない)と考える人がいるかもしれない。しかし、「反戦」を内容とするビラを日本人相手にまくことは充分ありうることだし(これは「反日」であっても同様)、ビラを渡された「残された同志」についてもそのビラを読むのではなく、死んだ中国共産党員のビラのうえに新しいビラを貼りつけたとしか言われていないのである。
 読解の鍵となるのは、「銃架はひとりの同志を奪い去った」というパッセージにおける「ひとりの同志」の解釈である。この「ひとりの同志」は文脈上ビラを貼る最中に殺された中国共産党の労働者だが、だれの同志かについては、他の中国共産党の労働者にとっての「同志」であるというよりも、ここでは文法上の主語である「銃架」にとっての「同志」だろう。ここでもやはり重要なのは前述した客観的な利害関係への槇村の視座であり、第一連からの詩の展開で見た場合、「同志」は「銃架」にとっての「同志」でありうるという事実である。客観的には利害を同じくする「同志」であるにもかかわらず、「銃架」はその「同志」を殺した、というのがこの箇所の意味するところであり展開だろう。そのうえで、歴史資料の助けも借りて解釈すれば、中国東北部で日本の官憲が収集した資料には「日本兵隊様ニ訴フ。日本帝国主義ハ諸君ヲ強制シテ満洲ニ派遣シ愛国主義ヲ押売リシテ中韓ノ労農大衆ヲ惨殺セシメツツアル。シカシソノ実益ハ何モ諸君ノタメニナルモノデハナク総テ軍閥資本家地主ノミノタメダ」というようなビラがたくさん残っており、この詩のビラが日本人兵卒に訴えるものだと考えるのは歴史的知識としても正当である。そもそも詩はひとつの暗示的行為であって、客体に対する恣意は避けるべきであるにしても、読む者による能動的主体的な意味構造の展開が不可欠なのである。そのうえ、歴史的経験をキーツやシェリーから得た英詩の方法に学びながらその本質において伝達する槇村の詩作品を相手にするのであれば、その詩の意味構造を展開する際に、こうした知識を導入することはけっして不当だとは言えない(この場合、読解は中国の詩学における典故の解釈に限りなく近づくのではないか)。
 そして、こうした読解においては、次のひそかな隠れた対照構造が浮かび上がる。――すなわち、インターナショナリズムの観点から現にある事態を見て動いていた中国共産党員はその理念的な強さによって、日本人の「銃架」にも門戸を開いていた。にもかかわらず、日本人の「銃架」は殺す。ここで日本の兵卒は侵略そして差別・強姦・虐殺に加担する「銃架」のままだった。以上のようにこの詩行を見るとき、ここには、プロレタリア・インターナショナリストとしての理念的な偉大さにおいて動いた人と、理念なんぞとはついぞ関わりなく日本帝国主義の論理に追従するだけの者の卑小さとの、隠れた、それも驚異的な対照が現われるのではないか。労働者は「中国共産党」と言いながら、それも「同志」としての連帯を訴える日本人の兵卒にアジビラを配りながら殺されたのである。殺されたビラ貼りの中国人労働者は客観的にそうであるとともに、文字通りの意味でも「同志」として振る舞った。そうしたビラ貼りの中国人労働者の姿とは対照的な、殺した側である日本人「銃架」のなんと卑小なことだろうか。ここで、殺された側と殺した側との関係は、際立った対照をなしている。そして、この対立は、インターナショナリズムとナショナリズムの対立であり、この対立する理念の図解は決定的な位置を詩作品のなかで占めている。
 第二連・第三連に続く第四連では、「お前の歴史は流血に彩られてきた」と1930年代以前に遡る反革命・排外主義への糾弾が始まる。槙村浩の階級的観点に貫かれたインターナショナリズムは、たとえば国策の誤りをうんぬんして「満洲事変以降」のみを問題にする、ある種の戦略主義者・戦術主義者たちの要請とも無縁なのである。問題はインターナショナルな連帯にこそあるのだ。だからこそ、ヒノマルを掲げる天皇制国家・日本という国の歴史総体とその全過程における日本人のありかたこそが、プロレタリア国際主義者・槙村浩にとって撃つべき対象となる。

「お前の歴史は流血に彩られて来た/かつて亀戸の森に隅田の岸に、また朝鮮に台湾に満洲に/お前は同志の咽を突き胸をえぐり/堆い死屍の上を血に酔い痴れて突き進んだ」

 このパッセージでの「お前の歴史」というのは妙な表現であるものの、一種の喚起的な表現であり、要するに「お前がそうである銃架の歴史を見よ」ということであって、民族排外主義としてあらわれる反革命への加担の数々を突き付けるように「亀戸の森」「隅田の岸」「朝鮮」「台湾」という語句が配列されているのである(これは歴史への指示を含んでいる。たとえば典故のように配置された「亀戸」という語句が指示しているのは関東大震災時の社会主義者・労働運動家や朝鮮人に対する大虐殺であることなどは簡単に理解できるだろうし、「朝鮮に台湾に満洲に」というパッセージは1931年以降の中国東北部全面侵略を19世紀後半以降の日本帝国によるアジア侵略史全体のなかに位置づける)。「堆い死屍の上を血に酔い痴れて突き進んだ」という詩句は、最近は保守派の海洋国家論だけではなくリベラル派の立憲主義イデオロギーとも結びつくことによって、現在も讃え続けられている、いわゆる明治以来の自画自賛された「栄光」の内実を的確に言い表している。現代の日本においても、この「栄光」、堆い死屍が発する血の臭いに酔いしれる者はいまなお絶たないのだが。
 いずれにしても、ここで重要なのは、ビラ貼りの労働者を殺害した日本軍「兵卒」のふるまいが、第四連で歴史的な位置を占めるに至っていることである。ある事象を、歴史的なパースペクティブのなかで捉えるのは「間島パルチザンの歌」でも行なわれたことであり、槇村の詩は特定の状況に沈潜するのではなく、局所的なものを巨大な諸関係のなかで捉えるのである。槇村のビジョンは階級的、国際的であるとともに歴史的なのだ。
 そして、槇村は、これを国内において反日本帝国主義のたたかいを中心的に担う日本共産党との関係でも、この「銃架」の振る舞いを位置づける。すべてはつながっているのである。

「雪崩れを打つ反戦のデモ。吹きまく弾圧の嵐の中に生命を賭して闘うお前たち、おれたちの前衛、ああ日本共産党!/――それもお前の眼には映らぬのか!」

したがって、次のように述べる。

「生ける銃架、お前が目的を知らず理由を問わず/お前と同じ他の国の生ける銃架を射殺し/お前が死を以て守らねばならぬ前衛の胸に、お前の銃剣を突き刺す時/背後にひびく哄笑がお前の耳を打たないのか」

 「目的」「理由」というのはおそらく資本主義を物質基盤とする国家的弾圧や帝国主義戦争の根拠のことであって、「知らず……問わず」の否定語「ず」の前後関係はそれを問うこと知ることのなさのために殺戮に駆り立てられるのだ、という関係を意味するものであると言える。そのために、本来みずからの階級的利害の表現を見出すべき対象であるはずの前衛=共産党の胸に銃剣を突き刺し、客観的には同志的な絆で結びついているはずの「他の国の生ける銃架」を刺殺するのである。「背後にひびく哄笑」、これは帝国主義戦争に自身の利害をもつ支配階級によるそれとも、プロレタリアートやその前衛のそれとも取り得るものだが、矛盾を国家間の対立として発現しつつその対立のために人びとを動員するという資本主義世界体制の関係に無自覚に飲み込まれる「銃架」に対する、ある意味での「歴史」からの哄笑とも解釈できる(全集版においては「万国資本家の哄笑」と意味が一義化されており、詩集版における曖昧さが果たす肯定的な役割が失われてしまっている。純粋に文献学的に見た場合には全集版のほうが正確かもしれないが)。ここでの「お前の眼には映らぬのか」「お前の耳を打たないのか」という強力なアポストロフィは、要するに、おまえはこれからも銃架であり続けることを望むのかという問いの、日本軍「銃架」に対する突き付けである。――はたして、この言い分は主体の力を過信した乱暴な言い分だろうか。わたしたちは、詩的現実においても、そして何よりも史的現実においても、日本軍「兵卒」が銃架であり続けることから逃れるための門戸、つまり日中人民連帯への門戸は、中国人民によって開かれていたことを忘れてはならない。つねに客観的な利害を同じくする「同志」からの「同志」としての呼びかけはあったのである。そのうえ、槇村の詩の言い分が現実的ではないと言うことは、日本帝国主義の中国東北部侵略に対する抵抗史のなかにその名を刻んだ、ファシストのけだものに囲まれた銃架であることに対して命がけの抵抗を行なった伊田助男や、実際に中国共産党のパルチザンとしてたたかった福間一夫たちの生涯をなかったことにする歴史修正主義の所業に等しいだろう。なけなしの個人の抵抗にすぎなかったのだとしても、かれらは中国人民を殺すことを拒否し、現実に銃剣の矛先を変えたのである。
 第五連で、日本帝国主義のインタレストに盲目的に呪縛され、残虐行為を働いた日本軍「銃架」の死をまえにして、はっきりと槇村の詩は言う――

「突如鉛色の地平に鈍い音が炸裂する/砂は崩れ、影は歪み、銃架は血を噴いて地上に倒れる/今ひとりの「忠良な臣民」が、ここに愚劣な生涯を終えた」

 槇村は、資本主義的支配階級の利害のために行われた日本帝国主義の侵略戦争に動員され、自身も民族排外主義に染まることでその指令に従順に従って反革命侵略戦争のために他国の労働者や兵士を殺して自分も死んだ「臣民」=「銃架」の生を「愚劣な生涯」と述べることを恐れなかった。「銃架」としての生は「愚劣」以外の何ものでもなく、何の意味もないのだ。こうした人間の死を前にしたとき、人は得てしてそれに肯定的な意味というものを付与してやることによってそれを招いた現実・客観的なものの優位の合理化に奉仕してしまう。ヤスクニに代表される天皇・天皇制イデオロギーの機能の一つはまさにそうしたものだろう。「愚劣な生涯」という表現が「臣民」としての生涯として扱われていることからもわかるように、わたしたちは、天皇制=ヤスクニ・イデオロギーに対する階級的視点の対置こそを、この「愚劣な」という言葉に見なければならない。槇村は「愚劣な生涯」を「愚劣な生涯」として規定することで、きっぱりと支配権力による意味づけを拒否するのである。実際こうした拒否は自由に対する思考の関係にとって試金石であり、「臣民」=「銃架」としての兵卒の生とそれに従順であった結果としての死に、「愚劣」以外の何かを見出すのは結局のところ事態をまねいている現実を追認するシニシズムでしかないだろう。「忠良な臣民」の「愚劣な」生から、みずからの解放をめざす階級的な主体へ、これは一貫した槇村の主題だった。
 愚劣さを愚劣さと認識した後に来るのは「愚劣な生涯」を拒否する抵抗のビジョン以外ではありえない。これに続く第五連では、接続詞「だが」を挟んで、すぐさま抵抗のビジョンへの転回が生じる。

「だがおれは期待する。他の多くのお前の仲間は、やがて銃を後ろに狙い、剣を後ろに構え/自らの解放に正しい道を選び、生ける銃架たる事を止めるであろう」

 唯一、意味のある生涯があるとすれば、この「愚劣な生涯」を強いる権力に打ち勝つためにたたかうことだけだろう。ただ、この一節を否定したのが『芸術的抵抗と挫折』における吉本隆明である。吉本は槇村の詩を「何を機縁にして庶民が銃を支配者に向けなおすのかをまったく捉えていない」と批判する。しかしながら、この詩作品が、アポストロフィ(頓呼法)によるこの「銃架」としての兵卒への問いかけであることを思い出そう。問いかけという形式を骨格にして読み手を巻き込んでいくこの詩作品においては、言葉は読み手に直接的に働きかける「力」としての言葉であり、「愚劣な生涯」という文句における「愚劣な」という規定は、「愚劣である」という事実確認的な機能を果たすとともに、同時に「愚劣とみなせ」という行為遂行的な働きも果たしているのである。侵略軍の一員として死ぬことが名誉とされていた当時の歴史的コンテクストにこの言葉を置いてみれば、この「愚劣な」という言葉に込められた支配的なものに対するアンチテーゼの強烈な力はいっそうはっきりするだろう。そして、ここで詩の言葉が求めているのは、問いかけを受けている兵卒が、読み手が、侵略軍の一員としての「愚劣な生涯」を「愚劣な生涯」として受け入れることである。そこから先は呼びかける者から呼びかけられる者へと委任されている。というのも、愚劣なものに自己満足するという別のシニカルな愚劣さに堕さない限りは、ここには抵抗のビジョンを受け入れる理由と余地が生まれるだろうからである。「だがおれは期待する」という一節における「期待」とは、兵卒ないしは読み手に向けられた、銃を支配者に向けなおすことへの期待であると同時に、愚劣さを愚劣さとして認識することへの期待である。そして、詩の論理は後者を前者への「機縁」としているのだ(あるいは、そもそも両者は不可分のものかもしれない。ヤスクニ・イデオロギーを拒否して侵略軍兵士としての生を「愚劣な」と規定することは、もうすでにそこに天皇制権力による自身の生の「意味づけ」を拒否するという抵抗への芽生えが存在している)。その意味で、安里ミゲルの吉本隆明への反論は妥当だろう、「『何を機縁に』ってね、侵略軍兵士としての汚辱にまみれた生のあり方そのものにきまっているじゃないですか。そしてそれを強制する権力との矛盾の中から、兵士がみずからが階級意識を育むことで『銃を支配者に向けなおす』わけですよ」(「現代詩――その過去・現在・未来」『悪い詩集』)。そして、こうした論理は、「愚劣な生涯」を強いる権力の問題も含めて、詩作品において充分に展開されているのである。
 第五連ですでに「帝国主義戦争を内乱に転嫁せよ」という第二インターナショナルの偉大なインターナショナリストたちの命題と結びついていた抵抗のビジョンは最後の第六連、第七連に続く。

「起て満州の農民労働者/お前の怒りを蒙古の嵐に鍛え、鞍山の溶鉱炉に溶かし込め!/おお、迫りくる革命の怒濤/遠くアムールの岸をかむ波の響きは、興安嶺を越え、松花江を渡り、ハルビンの寺院を揺すり、間島の村々に伝わり、あまねく遼寧の公司を揺るがし、日本駐留軍の陣営に迫る」

「おお、国境を越えて腕を結び、革命の防塞を築くその日はいつ」

 これ以上の説明は不要だろう。階級的、国際的、歴史的――槇村浩の詩作品にはプロレタリア・インターナショナリズムの圧倒的ビジョンが刻み込まれている。

注釈
※1 なお、中国においては現在、「満洲」という語は、中国東北部を分轄しようという日本帝国主義者の「夢」とつながった用語として、現在使うべきではないものとされている。その点でここでの用語の選択は問題があるが、日本帝国主義批判する槇村の場合に関しては、当時の中国共産党の東北三省の支部が「満洲省委」としていたことも含めて、時代的限界を考慮していただきたい。もちろん中国の人びとから「満洲」という言葉の使用を控えるように十分な根拠とともに言われている現在の日本人は、「満洲」という言葉の使用は控えるべきである。
※2 槇村浩の詩のビジョンの鋭さを考えるうえで「出征」も参考しうる。「出征」は一九三二年二月に『赤い銃火』に槇村浩が発表した詩作品であり、「9・18事変」に始まる日本帝国主義者による中国東北部侵略、そして当時中国人民による抗日闘争の根拠地となっており?介石の反共・抗日和平路線を拒否する十九路軍が存在していた上海に対する日本軍の攻撃という事態を前にして書かれたものである。この詩は、侵略軍の一員として出征する日本兵士の意識のなかに現象するという形式で語られるが、それによって「出征」というものに対して徹底的な批判的視点を読み手にもたらそうとする。注目すべきは冒頭の2つの連である。詩の第一連は「今宵電車は進行を止め、バスは傾いたまま動こうとせぬ/沿道の両側は雪崩れうつ群衆、提灯と小旗は濤のようにうねり/歓呼の声が怒濤のように跳ね返るなかをおれたちは次々にアーチを潜り、舗道を踏んで/いま駅前の広場に急ぐ」。しかし、この兵士はそうした風景を不思議に思う。第二連は次のように続く、「おお、不思議ではないか/かくも万歳の声がおれたちを包み/おれたちの旅が/かくも民衆の怒濤の歓呼に送られるとは/春の街人いきれにむれ返り/銃を持つ手に熱気さえ伝わる」。――考えてみれば「出征」とは根本的には帝国主義ブルジョワジーの利害実現のための戦争に行かされることでしかないわけで、兵士にせよその家族にせよ民衆にせよこれを喜ぶ理由は何もないはずである。にもかかわらず歓喜にあふれる民衆の姿がそこにはあって、出征する兵士にとってはこれが不思議で仕方がない。出征の風景がここでは謎として現われているのだ。そこで、この兵士は考える、「火の海のような市街を見つめながら、おれはふと思う/おれたちこそ/苦闘する中国の兄弟に送られた革命の援軍/国境を越えて共に防圧の鎖を断ち切る自由の戦士!」、と。これは「市街を見詰めながら、……ふと思」われたものであるのだから、自身の出征に対して歓喜にあふれる群衆という謎に対する答えである。そして第三連以降の展開はこれが十九路軍への援軍ということを示している。もちろん、現実には民衆はそうした理由で歓喜にあふれているわけではない。事実、歴史的にそうであったし、詩のなかでも第四連では「欺かれた民衆よ/粧われた民衆よ」と転調が入り込み、そうではない群衆の姿が明らかになる。であれば、一見すると、この第二連の兵士の考えは狂っているように見える。しかし、どう考えてもここで狂っているのは歓喜にあふれる民衆の側であって、盛大な勘違いをせざるをえない兵士はいたってまともなのだ。正気な眼で見れば、十九路軍の援軍として「出征」するというのでなければ、なぜ民衆が歓喜しているのか、その論理がまったく理解できないのである。ブレヒト曰く「コミュニズムとは狂気ではなく狂気を終わらせるものである」であるが、槇村が描く、民衆の姿が謎として現われその謎に誤った答えを出さざるをえないこの兵士の意識は、まさにそうした意味でのコミュニズム、プロレタリア国際主義の立場に立っている。この第二連で作られるのはプロレタリア国際主義の理念を信じる兵士の意識とそれとは?み合わない群衆の姿との対照構造であって、後者の狂った様子がアイロニカルに照射されるのである。さらに言えば、この兵士の意識は架空のものであり、自身を十九路軍への援軍とは考えない現実の兵士との対照も内包している。こうした詩句は異化する効果をもった詩であると言える。狂った社会では、狂気は正気となり、正気は狂気となる。しかし、あくまでも狂気は狂気であり、それは転倒にすぎない。「常識的な」視点では正気と狂気の関係は逆転して捉えられてしまう。もともと、ブレヒトが想定した異化作用とは、「常識的」に見られたその両者の関係をもう一度転倒し、読み手にそれとは異なる視野を開かせることであった。槇村が行なったのもこれである。槇村の詩は「出征」に歓喜する群衆の姿について懐疑し、別の視野をもたらす。そこで開かれるのはプロレタリア国際主義者の視野である。槇村の場合、アイロニカルな対照構造の構築に長けたイギリスの詩人ジョン‐キーツの読者でもありその影響がこうした詩を書きえた理由かもしれないが、当時日本を覆い尽くした狂気を撃つこの詩句は非常に見事なその用例ではないだろうか。(詩の引用は槇村浩『間島パルチザンの歌』新日本出版社、1964年より。)


詩の朗読会「三花繚乱」について
詩の朗読会を企画して

松岡慶一


 4月15日(土)の夕べ、江古田カフェ・ライブハウス フライングティーポットにて「三花繚乱」と題して詩の朗読会を開催した。朗読者は、究極Q太郎、都築直美、斉藤光太郎のお三方、第一部と第二部に分けて朗読が進められた。朗読会の様子は参加者の飯島聡さんが書かれているので読んでいただきたい。
 この朗読会は私松岡が企画したのだが、企画するに至ったいきさつを少し述べる。去年12月頃から私は都築直美さんの詩集を作る手伝いをしていた。都築さんの詩集『ヴィンセントの窓辺』は、ここ数年都築さんが書かれた詩を集めた詩集だ。幸いなことに詩集発行が朗読会に間に合って、詩集のなかから17篇の詩を朗読していただくことができた。究極Q太郎さんとは2000年から始まったHOWS戦後文学ゼミで数年共に活動し、その後確か2006年以降お会いしていない。それが最近になってフライングティーポットでの詩の朗読会でほぼ16年ぶりにお会いすることができた。そこで聴いた究極さんの朗読と購入した詩集『蜻蛉(あきづ)の散歩――散歩依存症』でお会いできなかった時のことを知り、またそのような朗読会をフライングティーポットでやってみたくなった。それで都築直美さんと斉藤光太郎さん――HOWS戦後文学ゼミで共に活動し、2015年には歌人加部洋祐さんの歌集『亜天使』を朗読された――を誘い、かくして「三花繚乱」の朗読会と相成った。
 それぞれ年齢、生きてきた経緯など違っているが、合流することで何か≠ェ産み出せるのではとの期待があった。実現したことを喜びたい。
 この朗読会を終えて、しきりに再生≠ニいう言葉が頭に響いた。この荒んだ日本社会で、へしゃげて頭を垂れて生きている花々―人々―がいる。その花々を再生できたらという願いだ。それはすなわち自分が自らを再生することだ。そのような活動をやっていきたい。
追記:飯島さんの感想のあとに朗読会でお三方が朗読された詩各一篇を掲載しました。読んでいただけたら幸いです。


2023年春の夜の詩の朗読会「三花繚乱」に参加して
――三人三様の豊かな感性に触れて

飯島 聡


 いま思えば、この機会をずっと待ち望んでいたのかもしれません。松岡慶一さんから詩の朗読会に誘われたとき、わたしはこれを苦手意識のある詩と本格的に向き合う絶好の機会にしたいと渇望したことを覚えています。すなわち、4月15日(土)夕刻、「三花繚乱」と題した、作品展示やイベントを行なうことのできる東京・江古田の喫茶店で開催された詩の朗読会にわたしは足を運びました。その朗読会は三人の詩人が自作他作の詩を朗読するという、タイトルの「三花繚乱」の文字どおり、咲き乱れ入り乱れるイベントでした。その三人の詩人とは、最近では私家版詩集『蜻蛉(あきづ)の散歩――散歩依存症』を発行するなど詩作を続けている究極Q太郎さん、今年四月に詩集『ヴィンセントの窓辺』(七月堂)を上梓したばかりの都築直美さん、そしてわたしの友人である斉藤光太郎さんの三人のこと。朗読会をプロデュースしたのは先述の松岡さん。参加者は20名ほど。会場にはプロレタリア詩人の安里ミゲルさんや歌人の加部洋祐さんの顔も見えました。
 究極さんは宮沢賢治の『春と修羅』(一部分)や英詩そして社会問題を詠った詩など様々な詩や、アル中や鬱を脱していまは散歩依存症≠セと称して長いときは一日10時間の散歩をこなすこともあるとの近況報告も兼ねて、「散歩依存症」など散歩にまつわる何編かの自作の詩を朗読しました。「飲酒(の)みたくなったら/散歩に出よう。/そんな風に決めてまず調布へと出掛けた。/つげ義春に出逢うかもしれない/ばくぜんと思いながら。」と、究極さんが私淑している往年の名漫画家との、自身の散歩(小さな旅?)体験を通しての 邂逅≠詠った、いささか自嘲的な自作「日の戯れ」が持つ軽妙さにわたしは惚れ込みました。
 都築さんは自作17編の詩を朗々とした声で流れるように朗読しました。詩は全体的に短く余計な説明を省いているだけに暗示的であり、視覚に訴える要素が豊富であることもあって、聴き手の想像力をおおいにかきたてるものでした。また、「12月の音」では「世界はね/心の臓突き破るほどに/バクバクだよ」という、「世界」に登場したばかりの「ゴキブリの赤ん坊」への温かな励ましの言葉にわたしは好感を持ちました。さらに、「ビルケナウ」ではナチスのユダヤ人虐殺を扱い、「僕は 本当に/苦しかったんだ」と真正面からこの事件の本質を受け止めていて、都築さんの誠実さに心打たれました。
 斉藤さんは3・11の福島第一原発事故の際に詠んだ自作「詩の廃止中」では「げんぱつばんざい」と事故の深層を反語的に鋭く突き、「これから生まれてくる 傷をおわされた子供たちを/祝福された存在として 迎え入れるつもりが あるか」と事故がもたらした冷酷な現実を怒りでもって告発しました。また、自作「人間の形をした不燃物」では斉藤さん自身が職場や日常生活から感じるいまどきの鬱屈を表現し、「斉藤光太郎、死ね」と連呼しつつも、「生きるな、お前/死ぬな、お前」とも呼びかけるというアンビバレントで複層した感情を表現していました。さらに、詩人の吉増剛造の「雑草よ」「続祭火」や伝説のパンクロックバンド「THE STALIN」の遠藤ミチロウの「革命的日常」「父よ、あなたは偉かった」という、時代や社会を激しく挑発する詩でも、斉藤さんは畳みかけるように力強く朗読していくというスタイルを貫き通していて、わたしは斉藤さんのほとばしる激情の吐露に圧倒されました。最後に、斉藤さんが関わった「警視庁機動隊の沖縄派遣は違法! 住民訴訟」で自身が作成した口頭弁論原告意見陳述書を読み上げるというユニークな試みをしたのも面白かったです。
 朗読会の後に近くの居酒屋にて八人ほどで懇親をしましたが、会場にて参加者全員で感想を述べ批評し合う場をあわせて設けてもよかったのではないかとも思いました。いずれにせよ、このどうしようもなく貧相な現代社会におのれの言葉ひとつで対峙しようとする三人三様の豊かな感性に触れて、朗読も素晴らしかったこともあり、「詩の世界って本当に奥が深いんだなあ」と素直に感じることができました。と同時に、そう感じさせる力≠ェ朗読にはあることにわたしは気づかされました。また、都築さんと斉藤さんはそれぞれ音楽を流しながら朗読していましたが、流れ出る音楽の曲想・曲調と音読される詩の情趣とが不思議とお互いに響き合っていたのも興味深い現象でありました。詩をたしなむ人は多いと思いますが、詩の朗読(を聴くこと)はそれに輪をかけて愉しきことであることをこの文章を読まれている皆さんにお伝えしたいと思います。
 次回の詩の朗読会もおおいに期待していますよ! 松岡さん!

※斉藤さんが朗読した吉増と遠藤の詩はつぎの書籍に所収されています。
・吉増剛造『吉増剛造詩集――現代詩文庫41』(思潮社、1979年)
・遠藤ミチロウ『嫌ダッと言っても愛してやるさ!』(ちくま文庫、2019年)


散歩依存症          究極Q太郎

N君が煙草を吸うたび
例えば「13:20煙草」とそのつど介護日誌に記すのは、
そうやってあえてすることが
一時間に一本という約束の示しをつけてみせるから。
そもそもチェインスモーカーだった彼。
やめられないとまらない
何かに打ち込んでいるとき以外は、
ひっきりなしだった。
今年の初め、肺炎になって
入院して懲りた
というよりも
医者に
煙草の数を減らすように言われた。
そうして一時間に一本と
約束をさせられた。
それを守っているのだが、
以前のニコチン中毒ぶりを知るものからすれば
はなはだ信じがたいまでの順守ぶりである。
これを私は、こだわり行動のシフトとみてとった。
こだわり自体が消えたわけではない。
それが以前の「切れ目なく」から
「一時間に一本」へと移っただけなのだ。
そうして私が介護日誌に書き付けて
そのつど念を押す、知らしめる、自縛を促す。
彼はそうせざるをえないようにそうする。
これは使えるな、と思った。

3月、鼻の付け根から眉根にかけて
つぶつぶの湿疹ができたのでいじっていたら
腫れて爛れて膿が出た。
皮膚科に行くとかぶれたようだという
軟膏と服用の抗生物質を処方された。
そうして医者にすげなく言われた。
不眠と飲酒は治癒に厳禁。
週に一度の泊まり介護は、
夜間に三回ほど尿パッドを換えなければならない。
寝て、目覚ましをかけて、起きて、また寝る、
他の介護者がするようにすればいいのだ
が、私は眠剤を服まなければ寝つけない、逆に、のむと
たぶん起きられないので
一晩中起きていた。
夜勤明けのあくる日も眠気がおのずと訪れたりはしないため
夜を待ってようやく眠剤を飲んで寝るまで
ずうっと起きていた。
こういう生活が三年ほど続いていた。
また無聊を憂さを酒に紛らせてもいた。
仕事が終わると速攻で
酒を買いにはしるか飲める店に入る。
休日は終日。身体に気遣いする余裕も無く、
気がひとかたに荒んでいく。
この袋小路は水も漏らさぬようだった。
そうしてどん詰まりに頭を打ちながら
やがて潰えさる日を待つのだ。

泊まり介護のことをコーディネーターに頼んで
夜勤から外してもらった。
こちらには医者の「不眠厳禁」というお墨付きがあるのだが、
どことなく不服そうに
けれども受け入れてくれた。
それから彼に時々会うとき、辻褄をあわせるべく
「お酒も厳禁」と言われたので止めた、というと
「そう簡単にやめられたのだからアル中じゃなかったんですね」と
あっさりされる。
治ったのなら夜勤に復帰を、という底意があるから
こちらも有無を言わさぬ「不可逆」を示さなければならない。
「お酒を飲まなくなって、散歩にはまった。
アルコールの依存を散歩依存に宗旨がえした。
N君がこだわり行動をシフトさせたのを真似した」。
ひとにはそう言いふらしているが
これは本当は
自分に暗示をかけているのである。


ねずたちの入隊          都築直美

夜更けて
ねず達が
別れの挨拶にやってきた

皆、昨夜のうちに支給された
という迷彩柄の軍服を着ていた
「どうしたんだ? その格好?」
驚き問う僕に
「皆、入隊する事になりました」
「守るべきものがありますから」
と、言う

「おかしいだろ?」
この間生まれたチビ鼠たちさえ
迷彩を着せられている
しかも小さな軍服の胸には
勲章が付いている
5歳未満での出陣志願者には
はなっから勲章が与えられる
らしい
「畜生? 前線に出して盾にするつもりだな」
怒りで顔が熱くなって来た

目を凝らして、よくよく見ると

大人のねず達の軍服の右ポケットには《?》の刺繍

左ポケットには《チェ・ゲバラ》
額には《神風》の鉢巻
一体どこの国の軍隊なんだ?

ねずの一匹が言う
「もし命あって帰れたら、電報を
打ちますから馬喰町まで迎えに
来てくれますか?」

「当たり前だろ」
聞こえたのだろうか
ねず達はくるりと背中を向けて
行進を始めた

涙が出てきた
「行かないでくれ?」
「お願いだからーっ?」

ぼくは力の限り叫び
泣いた

ねず達の去った道は
暗く深く
うねり
うねりし
まるで…僕と違う次元へと彼らが
吸い込まれてしまったかの
ようで…
今度は声を出さずに
泣いた

しばらく眠りに落ちていたのか?
ベッドの上
屋根裏で微かな音

よじ登ってみたら
秘密の通路の手前には
齧りかけのフランスパンと
少し硬くなったチーズの欠片

ねず達の 寝息

入隊…しなかったんだね


人の形をした不燃物          斉藤光太郎

トイレの配管に映る憂い顔の男
の影が溶けて消えた ところにある自分の顔
休暇一つ取るのにも上司の顔をうかがい
鼻くそを丸めるほどの自由を享受する
「はたらく」はハタを楽にする、が、あたら苦になる
「使えねえな、あのオバサン」という男女平等。
「ろくな学歴もないからこんなとこで働いてんでしょ。」 人間はそうしたもの
祝うべきか、呪うべきか。自分が誕生したことを。
生命誌38億年間、最大の災厄
人類の歩みは地球を粉砕するところまで行く
宇宙の対応物を己の中に探せ
右側に気をつけろ。それから左側にも。
全体主義は二つの翼を持つ
ぼくたちはさらに深くたもとを分かつ
怒りは傷つけられた者の流す血
憎しみは凝固したカサブタ
怒りよりも長続きする憎しみは 唯一の確かな感情
信じたものに裏切られた衝撃は 臆病という本能を乗り越えていく
他人に期待すると裏切られる。他人は自分じゃない
朝から散乱する悲惨な傘の花
のようにモクレンは雨に溶けた
死の色をした黒い川に 光の波が跳ねまわり積算する
自分には人を愛する能力がない
妄想が頭をめぐるだけで夜も眠れず、何も生み出さず
胸の傷が膿み始める
画面をスクロールした先にある一番最初の言葉
心にうがたれたうつろな穴に
甘くて酸っぱいレモンティーを注ぎ込む
自転車に乗って、クジラの背を駆け下り
オオトカゲのまたぐらを走り抜ける
こんじきの角笛を持った探索者は
逆さに持った地図を困り顔でひっくり返す
しどろもどろの哲学者
の、窓を開け放ったような笑顔が こちらに向けられることはない
44年生きてきてようやく見つけたと思った光は
鉄のカーテンの向こうに消えた
たとえば、命を絶ってでもあなたの心に痕跡を残したい、という、よこしまな意図を
断ち切る
生きる、名を、前へ。死ぬな、お前。
サイトウコウタロウシネ サイトウコウタロウシネ
生きるな、お前。死ぬ名を、前へ。


月がおぼろに笑う。けぶるようにむせび泣く。
全世界を見下ろして笑ってるやつらがいる
見下ろされて笑われている我々がいる
核エネルギーの前に言葉は無力だ
タオのプーチン 校庭の爆弾
校庭のジャングルジム ひしゃげながらうずくまる
現在絶賛死亡中 原罪絶賛主謀中
世界大統領 一名様 ご案内
無為の主ひんは講釈を垂れる
美と肉の詩人
ポリティカルな表現で出世する回路をさぐれ
詩人に出征はつきものだ
?む飯粒に割れた奥歯の破片が混じる
ライトに照らされてそびえたつ巨大な森の下
ピンク色した丸い檻の中で
顔を青く塗りたくった女の演説が始まる
地面をのたうち回るネズミがいきなり飛び上がり ほほをかすめて落ちてゆく

究極Q太郎詩集『蜻蛉(あきづ)の散歩――散歩依存症』(私家版、500円)
都築直美詩集『ヴィンセントの窓辺』(七月堂、1800円)
以上の詩集を購入されたい方は090-3518-5412(松岡)までご連絡ください。