HOWS文学ゼミニュース No.4 2021年12月25日
発行:HOWS文学ゼミナール
HOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)
特集 中野重治『五勺の酒』と「独立の民族として」をめぐって
◇「中野重治『五勺の酒』を考える」を読んで――志賀盛久さんの手紙……………2
◇わかりにくさを解き明かす返信――渥美博「中野重治『五勺の酒』を考える
――人民が“権威”となるために」の魅力(山口直孝)…………………………3
◇(再録)なかのしげはる「独立の民族として」………………………………………5
◇中野重治の教育論としての「五勺の酒」(添田直人) ………………………………9
◇中野重治の祖父(渥美博)………………………………………………………………11
◇中野重治「五勺の酒」と「独立の民族として」(松岡慶一) ………………………13
《エッセイ》ジャン・ジュネ『屏風』と目取眞俊の作品をめぐって(斉藤光太郎)…15
本ニュースの〈特集 中野重治『五勺の酒』と「独立の民族として」をめぐって〉は、2021年HOWS文学ゼミ新冊子(2021年7月1日発行)に掲載された渥美博「中野重治『五勺の酒』を考える――人民が“権威”となるために」を素材に2021年7月31日HOWS夏季セミナーで「天皇制と中野重治」と題して講座を持ったあとに、参加者添田直人さんから中野重治に「五勺の酒」と同時期の「独立の民族として」という全集未収録の評論があることをご教示いただいたところから始まっています。また同時に、渥美さんへ先輩志賀盛久さんから「中野重治『五勺の酒』を考える――人民が“権威”となるために」についての手紙が届きました。この二つの契機から、本ニュースは特集を組むこととなりました。
また、掲載した斉藤光太郎さんのエッセイは、HOWS文学ゼミ(第U期)の第三回斉藤光太郎報告「目取真俊の文学から沖縄を探る――『群蝶の木』」での報告を一歩進めた力作です。特集ともども読んでいただけたら幸いです。
HOWS文学ゼミナール新冊子第一号、渥美博『中野重治『五勺の酒』を考える』は、小川町企画で取り扱っています。購入ご希望の方は、上記の電話、ファックス、も
しくはe-mailでお問い合わせください。
「中野重治『五勺の酒』を考える」を読んで
――志賀盛久さんの手紙
HOWS文学ゼミ新冊子第一号に掲載された拙文「中野重治『五勺の酒』を考える」を読んで先輩の志賀盛久さんが感想を手紙で寄せてくれました。貴重なご意見だと思いますので、本人の了解をいただき、ここに掲載いたします。(渥美博)
前略
「中野重治『五勺の酒』を考える」という評論はなかなかの労作です。以下思いつくままに感想を述べたいと思います。
中野重治は『村の家』で孫蔵に「共産党が出来るのは当たり前なこと。しかしたとえレーニンを持ってきても日本の天皇のような魅力を人民に与えることはできぬ」と言わせている。筆者はこの言葉は「物語の中になにげなくはさまれている言葉であるが、看過できない言葉である」と強調していた。つまり、天皇制は政治的な強権として存在するだけでなく、社会のすみずみまで浸透し、孫蔵のような人間でさえ、天皇への親愛感を口にするとある。この点が民主主義にとっては、一番危険なところではないだろうか。
従って、この問題に危機感を持つ日本人なら誰しもが、日本がどうしてこうなったか、はたまた、どうして日本共産党がこの危機を防げなかったのかについて、深く掘り下げて考えてみる必要があったのではないかと思います。
また天皇制の問題では「象徴天皇」というまるでマジックのような語句や制度が支配階級によってあみ出され、これが巧みに駆使されてきた結果、戦後の長い年月を経て、日本の社会のすみずみに迄浸透してしまったように考えられる。そしてこれが孫蔵によれば「たとえレーニンを持ってきても、日本の天皇のような魅力を人民に与えることはできぬ」となり、さらに又これが現在の日本の社会のすみずみまで浸透している「象徴天皇制」の現実の姿ではないかと思われる。
次に貴兄の「評論」にある次の文は大変重要な意味を含んだものなので以下に引用すると「時の権力者はみずからが天皇にぬかずくことによって、天皇を神として崇め、その尊厳を利用して人民を支配する。……その構図は一貫している。……天皇を利用するものはもっとも天皇を『冒瀆』している。天皇家はその利用を利用して『万世一系』を保ってきた」とあるが、誠にその通りで、天皇制の本質を実に巧みに表現していると思う。私は不勉強のため日本の天皇制を論ずることはできないが、今日の日本の象徴天皇制がまやかしのロジックで、日本の民主主義を土台から引きずり下ろし、まやかしの民主主義という名の国家に作り変えてしまったように思えてなりません。その結果、天皇への親愛の情が日本社会のすみずみにまで浸透してしまったことは、日本の民主主義勢力にとっては、取り返しのつかない痛手であったと今は痛切に感じております。それ故この点をどなたかに詳しく論評して頂けたら有難いと思っております。
どうぞよろしくお願い申し上げます。 草々
2021年10月24日
志賀盛久
渥美博様
わかりにくさを解き明かす返信
――渥美博「中野重治『五勺の酒』を考える――人民が“権威”となるために」の魅力
山口直孝
書簡体小説に関心があり、目に留まると作品名を控えるように心がけている。リチャードソン『パメラ』に代表されるように、西欧における近代小説の誕生に手紙が重要な役割を果たしたことは、周知のことであろう。私信は、リアリティを保証する枠組であり、秘密を伝える手段としても有効に機能した。日本の場合はどうであったのかが気になっており、採集を続けている。今までの感触で言えば、作家と等身大の人物が綴ったモノローグ的なものが多く、小説の質を高める契機にはなりえなかったという印象である。設定がきちんと説明されず、小説というより随想に近いものが多い。
共産党員の知人に宛てた中学校長の書簡という形を取った『五勺の酒』は、名前は不明であるが、書き手のプロフィールが伝わるように作られており、作者中野重治との異なりは明らかである。日本の書簡体小説としては珍しい、独立性を備えている。当初の構想にあったという、共産党員の返信が実現していたならば、さらに異例の往復書簡の作品となっていたであろう。未完に終わったのは惜しまれるが、小説がフィクションとして完結していることはいささかも揺るがない。校長を作者と直結させ、中野の天皇に対する親近感が現われた一編であると受け取る(例えば江藤淳『昭和の文人』、小熊英二『民主と愛国』など)のは、曲解と呼ぶしかない。
とはいえ、『五勺の酒』はわかりやすい小説ではない。理由の一つとして、歴史的状況が客観的に示されていないことが挙げられる。いつのできことか、どちらが先に起こっているのか、はっきりしないものが多い。時間の推移が不透明なのは中野作品全般に見られる特徴である。『五勺の酒』は、『むらぎも』や『甲乙丙丁』に比べるとていねいに記述されているが、「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」(1946年11月3日)を「あの日」のことと呼んで済ませているように、同時代の文脈に依存している傾向が感じられる。空気を共有しない現代の読者にはたどりにくいところがあることは否めない。
渥美博の報告は、『五勺の酒』論であるにもかかわらず、半分以上を当時の社会状況の確認に費やしている。論として特異な構成であるが、進行中のできごと(憲法は公布されたが、施行前である)を描いた小説に取り組む上で、それは必然的な選択であった。敗戦によってファシズム体制がひとまず崩れ、占領軍の民主化政策の下に、合法化された日本共産党や労働組合の活動が幅広い支持を得た。天皇制を批判する言説が現われ、石川淳や坂口安吾など、文壇からの発言もあった。一方で一般大衆層の天皇制支持は根強く、支配階級による体制維持の画策も絶えることがない。自分たちの手で解放をなしえたわけではなかったにもかかわらず、コミュニストたちの見通しは楽観的であった。渥美は、敗戦以後の歩みを検証し、変革の志向と反動的な意識とがせめぎ合っていた様相をとらえている。『五勺の酒』の主人公は、良心的でありつつ、天皇への同情を隠さない知識人である。彼は、簡単に変わることのない日本人の一例であり、運動がまず意識しなければならない存在である。働きかけの対象であり、説得が簡単ではない相手である人物を形象化したところに作品の意義はある。
『五勺の酒』のわかりにくさのもう一つの理由は、「国民」に浸透した天皇制を克服することの困難さに由来する。半封建制の意識は、昭和天皇の姿を通して人々に深く根を下ろしている。身体化した反応を笑うことはたやすいが、否定するだけではナショナリズムにとらわれた集団を革命の勢力に転化させることはできない。「民族道徳樹立」という課題のためには、運動側と民衆側、双方の変化が必要となる。校長の言葉には、新しい時代に対応できない限界を持つ部分と共産党への有理の提言である部分とが混在している。葛藤する校長の思考を細やかに分析することを通じて、渥美は『五勺の酒』が困難な現実に向き合う意欲に貫かれた作品であることを指摘する。わかりにくさの底にある明快な精神を抽出しているところに、考察の魅力はあろう。
『五勺の酒』の校長と『村の家』の孫蔵との類似は、うなずかされる見解であった。開明的な考えの持ち主においても、天皇制の不合理が理解されないことはしばしば見られる。立ちはだかる肉親や近しい人々にどう向き合うか、『村の家』から『五勺の酒』への連なりは、中野における問題意識の持続を物語る。敗戦を節目ととらえ、以前を振り返ろうとはしない態度とは異なる意識が、創作には貫流していた。むろん、小説におけるモチーフは、「冬に入る」(『展望』1946年1月)や「文学者の国民としての立場」(『新生』1946年2月)などのエッセイで「国民」の非主体性を批判する主張と別物ではない。
天皇が権威である社会を打破するためには、人民自らが「権威」とならなければならない。渥美の報告の副題は、『五勺の酒』の先にあるものを見すえて掲げられている。歴史の主体となることは、しかし、簡単なことではなかろう。旧い社会の発想を克服する方法はあらかじめ与えられているわけではない。後編がついに発表されなかった事情も、おそらく問いかけに対する解答がすぐにはまとまらなかったからであろう。『五勺の酒』を往復書簡の形に仕上げる課題は、なお残されている。渥美の報告は、今日におけるすぐれた返信の一つであった。それを踏まえて、さらなる応答が試みられてよい。
独立の民族として
日本の民主主義革命は外から来たが、われわれはそれを内で生かさねばならぬ
なかの しげはる
戦争がすんで、まる一年以上たった。夏の議会では新しい憲法ができたような形になった。しかしほんとうに戦争がすんだのだろうか。そう問いかえして、たしかに戦争はすんだと答えられるものが実際どれだけいるだろうか。ほんとうに戦争がすんで一年以上たったのか。ほんとうに新しい憲法ができたのか。どこが変ったのか。どこで日本が、根本的にコースをかえたのか。
この一年のうちにはいろいろのことがあった。日に日に大変化があった。しかしそれらがほんとうに、実際に、大変化だったろうか。国民のたましいが、あの大きな犠牲を払って、その払ったということで変っただろうか。まだまだもとのままなのではないか。天皇も、政府も、国民のあるものも、まだまだもとのままでけろりとしているのではないか。
多くの変化があった。しかし民主主義への変化ではなくて、奴隷根性への変化さえ生じているのではなかろうか。
大変化はたしかにあった。しかし大変化そのものの中味を吟味してからでなければ、うかつには安心できぬ。今年六月の末から七月のはじめへかけて、静岡県三島の町に、天皇が千葉県へ行ったときのニュース映画がかかっていた。うすぎたない腰かけの上で、まちまちの服装をした見物がカタズをのんで映画をみつめていた。やがて天皇があらわれた。天皇は帽子をとって八方へおじぎをした。それから新聞やラジオでくり返し知らされていた通りの文句をくり返して、またおじぎをした。そして何がおこったか。天皇の姿が画面から消えぬうちに、くらい映画館のなかでゲラゲラ笑いがおこった。二百人くらいの見物のなかから、二、三十人の人の笑い声がおこって闇のなかに反響した。笑ったものの顔はみえなかった。ただ女の声、子供の声はまじっていなかった。すくなくとも二十前後以上のくっきょうな男たち、そのくっきょうな、しかしうつろなゲラゲラ笑い声の下で、笑わなかった私は情けない思いをした。
天皇の映画をみてゲラゲラ笑いだすことは大変化にちがいない。しかしどんな大変化だろうか。八方へペコペコする天皇、紋切りがたの文句をところかまわずくり返す天皇は、その映画で実におかしかった。しかし、それを頂いている自分とそのものとの関係をおもい出すことなしにゲラゲラ笑い出せるということの方が一層滑稽で情けなくはないか。その笑いに国民としての自嘲がひそんでいたかとも、いまは考える。しかし、そこでは自嘲としては聞かれなかった。それは無責任なゲラゲラ笑いだった。結局してそれは丸めこまれた笑いだった。
こういうことが国民生活の全体に亙って生じていることこそ、これからの大問題だろうと思う。自分と天皇との実地関係にふれずに天皇の滑稽さを笑う。自分と政府役人との実地関係にふれずに政府役人をののしる。自分と共産党との実地関係にふれずに共産党を攻撃する。自分と配給の食いものとの実地関係にふれずに配給の食いものにありがたがる。自分と憲法との実地関係を考えずに出来た憲法をうのみにする。この勢いがこのままで進むかぎり、日本民族は独立民族としてのたましいを失う惧れが大いにあるだろうと思う。
一たい戦争のいたでは決して癒えていない。これからが傷として疼いてくる時期だろうと思う。しかし政府も国民のあるものも戦争のことを忘れてしまおうとしている。結局のところ、戦争と結びついているあれこれの大事について、それを自分で考え、それの解決策を自分の骨折りでつけようという、独立の人間としての気組みを失いかけようとしている。天皇制の廃止が問題になったとき、日本人は一せいにわき立った。共産主義者にたいしては暴行が加えられ、また、企てられた。天皇制問題は井戸ばたでも学者会議でも問題になった。ラジオや新聞でも意見がたたかわされた。しかしこの頃、敗戦一年の記念日ごろになって、天皇制の論議は一般に下火になったようにみえる。真面目な学者、まじめな民主主義者の研究はつづいて進んでいるが、一般にはひとまず落ちついたという形になって、実にそのなかで天皇制そのものが落ちついて新しく根を張ろうとしている。そしてそのなかで、天皇の任命した政府の宣伝にのせられて、国民の間に、いわば「民主主義的な奴隷根性」が根を張ろうとしている事実をみのがすことができぬと思う。
だまされたという以上、二度だまされてはならぬ。また人をだましてはならぬ。まして自分をだましてはならぬ。今年五月何日かのラジオの「真相箱」で日本天皇とマッカーサー元帥との問答の中味が発表された。それによると、あのとき元帥が天皇になぜ宣戦布告に署名したのかと訊いた。すると天皇が、もし自分が署名しなければ別の天皇が署名しただろうと答えたということだった。日本民族の一人としてわれわれがこれをどう取るか、そのなかには、日本人が日本人としてこの戦争にどんな形で責任を取るかということがふくまれているだろうと思う。
なぜ署名したかという問いに対して、もし自分がしなかったら別の天皇がしただろうと答えることは答えを逃げたことである。別の天皇などというものを引合いに出さずに、問われた自分のことを答えるのがまっすぐな答え方である。別の天皇が署名しようがしまいが、自分の署名は自分の署名である。自分が盗まねば別の男が盗んだろうということは、決してかぼちゃ泥棒の理由にはならぬ。政府、軍閥からだまされ、強制されたのであればあったほど、日本国民は、だまされ、強制された自分のおろかさと弱さとをあきらかに認めねばならぬ。二度とだまされまい強制されまいとする日本人は、それがまごころからであればあるほど、別の天皇云々の天皇の答えを民族の恥として民族の精神から駆逐せねばならぬ。嘘にだまされたこと、強制に屈服したこと、そこにわれわれの戦争責任があるのである。
別の天皇云々の答えはもう一つのことを含んでいる。それは天皇というものが、支配階級と軍閥との手でどうにでもとりかえられるものだということを、天皇みずからが裏がきしたことである。もし自分がしなければ別の天皇がしただろうということは、ある天皇がしなければその天皇が天皇の地位からのけられて別の人が天皇に立てられたろうという意味である。天皇とはそういうものだということを天皇自身説きあかしたのである。マッカーサー元帥との問答で天皇は答えを逃げた。しかし、同時に、天皇というものの性質を説明した。この二つを国民のすべてが正直に認めるか認めぬか、ここで、国民が自分で自分をだますかだまさぬか。国民が自分で自分をだまさぬかぎり、映画の天皇が滑稽だからといってゲラゲラ笑えるものかどうか、よく考えてみる必要があると思う。
一たいわれわれは、もっともっと実際的に考えるクセを自分につける必要がある。勅語にどうあるとか、総理大臣がどういったとか、新聞やラジオがどういっているかということで簡単にものごとを片づけるクセをほんとうに征伐してしまわねばならぬと思う。
政府はしきりにポツダム宣言の忠実な実行といっている。しかしポツダム宣言に何が書いてあるかは国民に説明していない。ポツダム宣言そのものを隠している。あちこちの国民学校、中等学校を廻ってみるとポツダム宣言などはどこにも貼り出してない。却って何々海軍大将だの何々文部大臣だのの書いた軍国主義的文句が額に仕立ててかけてある。極東軍事裁判で日本人弁護士のあるものが露骨にみせているのと同じポ宣言侮蔑が多くの学校を蔽っている。学校長などのいうことをきくとこれまでの教育が非科学的であったのがいけなかった、という風にしきりにいっている。これからは科学的教育を施さねばならぬ。そしてそういっている校長が、校庭のからの「奉安殿」に生徒たちにいままで通り敬礼させている。からの「奉安殿」に敬礼させつつ科学的教育をほどこそうという教師を、いつどこで国民が腹の底まで叩きなおすことができるか。科学的教育も教育の民主化も、ここでは外から、上から与えられたものとして額づいてうけとられている。北海道函館の駅へ行くと「進駐軍の命により」消毒をしてないものは船にのせぬかもしれぬということが書いてある。東京下北沢の駅では、電車の箱のつぎ目にのっている客に「進駐軍の命令ですから降りて下さい」といって駅員が叫んでいる。それからこの頃の政府や新聞は「関係すじ」がどうだとか「関係すじの了解を得ている」というようなことをいって、なにかの問題を国民に押しつけようとしている。
日本政府が連合軍の占領政策に協力しようとするかぎり、ポツダム宣言の忠実な履行ということを心から考えているかぎり、日本政府は自分の責任で事を行なわねばならぬ。連合軍は一々のことで直接日本国民には命令をくださない。日本の政府に自ら進んでやらせるというのがその建前である。このことを、国民自身よく呑みこんで、呑みこんだものとして実行する義務がある。D・D・Tの消毒を、進駐軍の命云々という看板をかけねばできぬようなことでまじめな日本人といえるかどうかを考えてみる必要がある。「関係すじ」にいたっては言語道断である。総司令部渉外局がなにか発表した場合にはそれを正確に発表すればいい。あの「関係すじ」云々は、連合軍が日本政府の責任でやるべきことを示した場合、責任を自分に引きうけずになんとなく背後の総司令部をほのめかして、それを笠にきて国民に押しつけるやり方である。ポツダム宣言の忠実な履行を約束しているのならば、その具体について、政府自身すすんで責任を負うのでなければならぬ。D・D・Tの消毒をみずから進んでやるのでなければならぬ。何のために一々のことに「進駐軍」をもち出すのか。それが奴隷根性である。そうして「進駐軍」がもち出さねば正しい行動に出ない国民自身が奴隷根性である。もう一歩すすめていえば、「進駐軍」や「関係すじ」をもち出してくる政府をそのままに置いておくこと自身、国民の側の奴隷根性である。こういう政府をまじめな政府にとりかえること、国民にたいして責任をもつ政府を国民がつくること、そこへ国民がすすむこと、このことの基本的援助こそ、連合軍が日本国民にたいしてしている根本政策なのである。
憲法の問題を考えてみよう。今度の憲法で、国の主権はまがりなりにも国民にあることになった。国の主権が天皇から国民へうつった。このあきらかな事実を、それが曲りなりだからといって、どうして天皇制の変化でないといえるだろうか。天皇が主権をもっていた。それが天皇から離れて国民の手にうつった。しかし「国体」はかわらない。天皇の任命した政府は、何を誰のためにこの上ごま化そうというのだろうか。
曲りなりにも新しい憲法ができたというので、これを国民に押しつけるために政府はお祭り騒ぎを計画して発表しているが、国民が政府の笛太鼓で踊れるかどうかは別問題である。
天皇とその政府とその政党とは、今度の戦争の性質説明ということでは完全に頬かぶりで通してしまった。そしてそこからまっすぐにあらゆる戦争の放棄という極点へ突進して行った。しかしそれならば、あらゆる戦争の放棄ということで日本政府は今度たたかった連合軍側の戦争、またそのような戦争をも認めぬといい切るつもりだろうか。民主主義のための戦争もファッシズムのための戦争も、戦争である以上、一しょくたにしてかまわぬとすれば、日本政府には便利かもしれない。そうすれば、今度の日本側の戦争がファッシズムのための戦争だったことなど論外となってしまうからである。民主主義への努力もポツダム宣言の実行も不必要になってしまうからである。
ここでもやはり単純素朴に考えるがいいと思う。盗むもの、殺すものはわるいものである。そこで盗むもの、殺すものをわるいとするものは盗人と人殺しとを防がねばならぬのである。盗人と人殺しとをみてみぬふりしているものは嘘つきである。まかりまちがえば盗人、人殺しに早変りしかねぬものである。ポツダム宣言は基本的人権の尊重ということを土台の土台としている。日本の進むべき道は基本的人権の尊重実現の道である。人間の生命、財産、名誉はどこまでもまもられねばならぬ。これを犯そうとするものとはどこまでも戦わねばならぬ。そしてこのことが同時に民族の運命の土台である。個人の生命、財産、名誉はどこまでも守る。民族の名誉、生命、財産を守るための戦いは一切放擲するというのでは、どこに民族の結合、その独立があろう。民族結合のシンボルだとか何だとかいう天皇は民族分散のこの憲法に規定されて、どこにその身をおちつけるのだろうか。
日本民族が民主的国家をつくるということは日本民族が独立の民族となることである。日本人全体がおみやげ屋根性になることは日本を民主化することの反対である。日本人全体が妾根性になり乞食根性になることは日本を民主化することの反対である。シラミ、ネズミの駆除で日本人はすすんで責任を負わねばならぬ。船車の乗り降りで日本人はすすんで責任を負わねばならぬ。人類の平和と民主主義とを破るものと戦うことで日本人はすすんで責任を負わねばならぬ。血で血をあらうというような馬鹿げたあり来りの言葉に迷わずにどこまでも洗うものは洗わねばならぬ。基本的人権をあくまでも尊重し、これを犯すものとは戦うという肚をきめて民主国の建設へすすまねばならぬ。八月十五日におくって来た日本国民へのメッセージでダイク准将は、無能で愚劣で民主主義の建設をさまたげている日本政府という意味のことをいっている。こういう言葉に日本人は責任をもって答えねばならぬ。今でもまだ天皇を国民統一のシンボルだとか道徳の中心だとかいっているものがあるが、そういう人間はそのことを世界にむかって説明せねばならぬと同時に、そういう人間をまだ存在させておくことについてわれわれ国民が世界民主主義に責任をおわねばならぬ。無能愚劣な政府をそのままに肯定するとすれば、われわれはそのことについてダイクを説得することが出来ねばならぬ。こういう忠告は頬かぶりでいなして、しかも「関係すじ」などという外国語に翻訳できぬ言葉で政府にいい加減にあしらわれているようでは民主主義の方向へ進みつつあるとはいえぬのである。
日本の民主主義革命は外から来たが、われわれはこれを内で生かさねばならぬ。外から来たものがいかに民主主義的であっても、それを自分の力で生かすのでなければわれわれが民主主義の人間となったということは出来ない。与えられたからおずおずうけ取るというのならば戦争中と同じである。いってもはじまらぬから黙っているというのでは戦争中と同じである。それならばそれは奴隷根性である。奴隷根性で民主主義をうけ入れるとすれば、それは奴隷根性で民主主義をうけ入れぬのよりもっと下劣なこととなろう。
『新生活』第二巻九号(1946年11月1日発行)
注:原文の正字を略字に、旧かなを新かなに、など訂正しました。
中野重治の教育論としての「五勺の酒」
添田直人
@ 中野重治の評論「獨立の民族として」を紹介した「けいろく通信第22号」は、活版刷りB4版の二つ折り1枚、裏表で全4ページ、1980年4月30日発行、「執筆発行人」「日野市日野3096 和田利夫」という記載がある。「宛名書き、切手貼り、一切合財一人でやっている」、「八〇年梨の花号」とある。梨の花が咲く4月に、配布されたのであろう。
「けいろく通信」は、国分一太郎(1911〜1985)の旧蔵書、中野重治全集第3巻(1977年)に折り畳まれ、はさんであった。第3巻には、「五勺の酒」が収録されている。これをはさんだのは国分である。主たる内容が「獨立の民族として」であり「五勺の酒」の重要資料として保管するためだ。
「獨立の民族として」は、定本版中野重治全集にも収録されていない。この評論が発表された雑誌「新生活」は、1946年11月1日号であるので、「五勺の酒」(雑誌「展望」、1947年1月号)とほぼ同時期に執筆されたはずである。
A 「村の家」(1935年)の勉次が転向し、父・孫蔵によって「百姓せえ」と筆を折ることを迫られるが、勉次が、「やはり書いていきたいと思います」と答えたのは、1934年である。生活綴方運動の全国誌「綴方生活」の1935年7月号に、北日本国語教育連盟の署名で「北方性とその指導理論」が掲載されている。
先ず私達は、北方の子どもたちに、はっきりと、この生活台の事実を分からせる。暗さに押し込める為ではなく、暗さを克服するために、暗いじめじめした恵まれない生活台をはっきり分からせる。分かったために出てくる元気はほんとうのものであると私達は考えてゐる。それも決して観念で、遠いところのお話としてではなく、・・・「生活性」を握ることが正しければ必ず「意慾性」に突きあたる。そして「生活の認識」によって「意慾性」に全身の鞭を与える。「生活知性」のない興奮は花火線香で、これは元来北方らしくない生活の仕方である。ねちねちと生き抜いていく苦難の中にほのぼのとした自分たちの文化を、私達は私たちの子供に握らしたいのである。
中野は、1937年4月に「農村児童の綴方について」(全集版第11巻)を書く。
農村の現実は恐ろしく暗い。暗い暗いとばかりいつていては駄目だという文学者などもあるが、しかし実際には動かしがたく暗い。そういう暗黒に子供たちが正面からぶつかるのはいいし正しい。しかし子供のぶつかる調子そのものが暗くなつてはいけない。飯米がなくなって税金が納められなくても、子供たちの気持ちは根本的に元気に保たれねばならない。私は子供たちだけ何か特別な童話風な世界が残されるべきだといおうとするのでは決してない。その反対であつて、この子供たちこそ闇を見透かす強い視力が養われねばならないと考えるものだ。
北方教育の用語、「生活台」とは、単なる生活環境や基盤のことではない。子供を取り巻く生活の現実に正面から向きあい合う連帯感、姿勢だ。現実の生活台は、抽象から出発するのではなくて、感覚を通じて、見たこと、聞いたことを、ありのままを言葉に密着させるための認識の出発点のことを言う。生活台をふまえた言葉でなければ「生活知性」も「生活意欲」も養われない。生活綴方運動の教育理論と中野の文学とは、その志向性と方法において似かよっていたと考えることができる。
B 実はもう一つ全集未収録作品がある。「文学的(創造的)なものと真実」であり、1963年に『講座・生活綴方第5巻』に収録された。編者は日本作文の会で、生活綴方運動の歴史をつないでいる団体で、中野はここに所属している。
「文学的(創造的)なものと真実」は、生活綴方において、いかに「物に即して」「感覚を通して」言葉を文字にする作業が、真実を獲得するのに必要かを強調する。同時に、実は中野自身の創作手法の特徴を語っている。中野独特の文章に比して、論旨が鮮明で、謙虚で、分かりやすさが際立っている。この講座の「まえがき」は国分が書いている。国分が編集委員として「教師向け、ひいては児童生徒向けに、分かりやすく」という注文をつけた結果ではないか。
C 「五勺の酒」は、なぜ「校長」の書簡体として設定されたのだろうか。校長は「未練」を再三再四連発する。「未練」とは、過去の自己の未練、後悔のことではないと強調している(「返せぬ過去への未練ではない」)。それは、教育者の教育論としての「将来への、未来への未練」であり、教師と生徒自身の闘いで、果たして、真実に到達するための文学的(創造的)な方法を創造できるのか、天皇・天皇制打倒があやういのではないか、と憂慮しているのである。
中野は、生涯において文学と言葉、言葉と教育、生活綴方への言及が多かった。教師はそれを読んで、感じ、大いに励まされたはずだ。教師の側からは、中野の文学に関して触れることがすくないが、こと教育に関する限り、その経験に照らして、中野の論考に一つの意見をもっているはずである。
国分の生前最後の著作は、『小学教師たちの有罪』(1984年)であり、戦時期生活綴方運動が国家権力の弾圧に血を流し屈服した原因を探っている。この後、国分は、<中野重治の教育論>を書く予定であった(『北に向かいし枝なりき』、172ページ、国分一太郎追悼文集刊行委員会、1986年)。ところが、病死によって果たすことができなかった。
国分は、文献資料で、チェックすべき重要な部分に付箋を貼るのではなく、ページの端をやや大きめに三角に折る癖がある。国分の旧蔵書である中野重治全集には、中野の教育に関するページに、ことごとく三角に折られた跡が鮮明に残っている。
中野重治の祖父
渥美 博
中野重治は獄中で日本の歴史を学んだ。「許可されたものの範囲が非常にせまいため、近代プロレタリアートの姿を求めることは容易にできなかったが過去の農民の姿はかなりあざやかに描かれていた。年貢、飢饉、一揆、打毀しのようすには殊にひかれた。」(「刑務所で読んだものから」1934.11.8)中野は本庄栄治郎の著作から多く学んだようだ。そしてそれらをメモした。
百姓と言物、牛馬に等しき辛き政に、重き賦税をかけられ、ひどき課役をあてらるるといへど、さらに云事ならず、是が為に身代を潰し、妻子を売り、或は疵を蒙り命を失ふ事限りなしといへど、不断罵詈打擲に逢ふて生を過ごす。(『民間省要』―本庄栄次郎『日本社会経済史』改造社「経済学全集」第30巻から孫引き)
これはたんに昔のはなしではない。不況に苦しむ昭和初期の農村の姿に重なるものがあった。中野の故郷、越前の一本田村で百姓をしている父親の姿に重なるものがあった。
百姓一揆を本庄栄治郎は次のようにまとめていた。
百姓一揆は、奉行若しくは代官等の横暴苛酷の処置に会ふ毎に、其の利害関係を共にする農民全体が相互に一致団結して、強制的に救済を求め、愁訴嘆願して遂に聞き届けられざるときは、止むことを得ず、竹槍蓆旗の大騒動を演ずるに至るものである。即ち主謀者を中心として蹶起した一村の農民が、城下に押寄する際、沿道の村民に対し、加入せざれば放火破壊する態度を以て、脅迫するから、苦しみを同じくせる農民は、大抵その仲間に加わり、丁度雪達磨の如く、転々一歩を進むる毎に、其の同勢を増し、数万の大群衆となり、鐘太鼓を鳴らし、法螺貝を吹き、蓆旗を押し立てて、城下に迫るのが普通のやり方である。秀吉が全国に刀狩をやって以来、百姓町人は武器を所有するを得ざりしため、彼らは竹槍、鍬、鎌等の凶器を提げて暴動したものであった。(『日本社会経済史』)
中野はこれらの文献から学びながら、自分たちのやってきた運動がはたして百姓(人民)の闘いの歴史につながったものであったかを考えたに違いない。
中野は子どもの頃祖父母に育てられた。祖父母は天保の生まれである。彼らは維新の激動の時代を壮年期に過ごした。越前でもいくたびも大きな一揆があった。1873(明治5)年には大野、今立、坂井三郡に「護法一揆」が起き、新政府の方針に反対して三万数千人が蹶起した。中野の故郷、一本田村も騒動にまきこまれた。中野は祖母にいくたびも「みのむし騒動」の話を聞かされた。
金津の方から一揆の群れが城のある丸岡のほうへ寄せてきた。藪へはいって竹槍を切りかけたものもいた。市右衛門さんという人がきて私の家にかけてあった村太鼓を打った。丸岡から鉄砲をかついだ侍の一隊がやってきて、道が私の家の前を通っていたので、それをちらりと見た。彼らは村ざかいの方へ急いだが、舟寄という村で一揆のうち何人かが「ほんだま」で殺されて一揆は引いた。私の祖父は太鼓を打ったというので―そのとき彼は家にいなかったのだったが―捕まって福井の牢に送られた。(「刑務所で読んだものから」)
「蟹シャボテンの花」(1938年)というエッセイで中野はその祖父のことを書いている。
丸岡城の周辺の百姓は、藩士の居宅用の土地を供出させられていた。廃藩になって藩からの宅地使用料が入らなくなってしまった。そこで12か村の百姓が土地返還の訴訟を起こした。原告団の六人の総代の一人として一本田村の中野治平(治兵衛とも)も名を連ねている。この訴訟は県段階では「借地人は地代を払え」「訴訟費用は被告(借地人)持ち」という判決で勝訴したのだが、結局は大審院までもつれた。
十二か村の百姓と二百十五人の士族との争いは相当なものだったに違いありません。―略―訴訟は明治八年から十一年にかけて続き、その間の費用は村々が共同につくりだし、田畑の耕作なども共同にして助けたということです。しかし私は、訴訟の顛末を書きたいというわけではありません。そのころはまだ鉄道がなく、その祖父たちは、一度は大阪から船で東京に行き、一度は親知らずの険(北陸道の難所―筆者)を「潮の退いたところを見かけて一人ずつ走って」通って行ったそうですが、当時の祖父の年齢が37・8歳、いまの私と同じであったことに私は嘆息するのです。
と中野は祖父の生き方に敬意を込めて書いている。このエッセイは、このころまではまだ村の自治や結の精神が健在であったという貴重な証言になっている。
中野の精神の原点はこういったところに求めることができるのではないだろうか。
中野重治「五勺の酒」と「独立の民族として」
松岡慶一
わたしは2021年7月31日、HOWS夏季セミナーにて「天皇制と中野重治」と題して、渥美博さんの評論「中野重治『五勺の酒』を考える―–人民が権威≠ニなるために」について報告した。その報告について、本来ならばまとめて研究ノートとして発表したいのだが、いまは力がない。今後の宿題となった。
しばらく経って9月初めに、当講座に参加された添田直人さんからメールが来て、持っておられる「けいろく通信」第22号に、中野重治全集に未収録の評論「独立の民族として」の紹介があることを教えていただいた。
幸いにもその後「独立の民族として」を読むことができた。それが今回文学ゼミニュースNo.4に収録した評論である。
「独立の民族として」は1946年11月1日発行『新生活』に発表された。「五勺の酒」は『展望』1947年1月号であるから、「独立の民族として」は「五勺の酒」とほぼ同時期で少し前に書かれたものだ。内容的にも、「五勺の酒」に憲法公布の日1946年11月3日の光景が描かれており、「独立の民族として」には「曲がりなりにも新しい憲法ができたというので、これを国民に押しつけるために政府はお祭り騒ぎを計画して発表している……」とある。「五勺の酒」の登場人物校長は、公布の日に特配された残りの五勺の酒に酔ってくだを巻くように語る。(小説の設定は共産党員の友人に対しての手紙となっている)
校長は天皇、民族道徳について語るが、中野重治は「独立の民族として」で、天皇について、新しい憲法について、敗戦後の事態に直面している国民について率直に書き、文末に言いたいことがまとめられている。
「日本の民主主義革命は外から来たが、われわれはこれを内で生かさねばならぬ。外から来たものがいかに民主主義的であっても、それを自分の力で生かすのでなければわれわれが民主主義の人間となったということは出来ない。与えられたからおずおずうけ取るというのならば戦争中と同じである。いってもはじまらぬから黙っているというのでは戦争中と同じである。それならばそれは奴隷根性である。奴隷根性で民主主義をうけ入れるとすれば、それは奴隷根性で民主主義をうけ入れぬのよりもっと下劣なこととなろう。」
耳の痛い話である。2021年の現在、ここに言われていると同様なことがまかりとおっている。いやもっと酷いだろう。「独立の民族として」は敗戦後一年余にこのような厳しい言葉を全文にわたって投げかけている。
「独立の民族として」「五勺の酒」が書かれた頃について、中野重治は『中野重治全集』「第三巻作者あとがき」(1961年8月)に当時の中野自身の小説と状況について次のように書いている。
「たしかにここに一つの敗終戦直後があった。それは、すこし大きくしていえば国としての日本の処理をめぐる階級的せめぎ合いの図でもあった。いままでの支配者層が、戦勝者として出てきたアメリカ帝国主義に隷属的に結びついてそのままこの処理を押しきるか、新しく登場してきた主権者としての人民が押しきるかのつばぜり合いである。そしてそこで、人民の側が、過去の条件と新しい条件とのもとで押しきられて行く状況の描写。階級闘争の指導的部隊が――それを共産党と共産主義者グループとに限る必要はない。――日本の状態を十分歴史的また現実的に捕えきれぬため、あたえられた条件のもとで事柄を革命的に順直に発展させることのできかねる悲しさの部分的捕捉。」
「つまりは1928年から1945年までの18年間が、またその期間の絶対主義的政治と戦争とが、日本人民の革命的部分を歴史の現実から切りはなしておいたことの歴史的報復ということである。この18年間、徳川末期以来のあらゆる民主主義への傾向をおさえてきた支配者層がなお引きつづいて権力の座にすわり、帝国主義的侵略と敗戦と降伏とにおいてさえ彼らが国代表として主役を演じたということである。さっき私は国と人民とが他から占領された事実について書いたが、それは、そのどんでん返しの瞬間に人民による国の占領がなかったということでもある。敗戦後の国の処理について、敗戦責任者である腐敗した旧支配層がそのまま新支配層として振舞った。これが、存在としての天皇をも、旧憲法をも、それの新憲法への過渡をも引きつづいて扱うのに成功した。これを仆〔たお〕すことのできなかった人民の側の一般のありさま、民主主義を攻撃的に捕捉しかけて捕捉しかねている状況の捕捉がたとえば『五勺の酒』などの基本調だったといえよう。」
これは、「五勺の酒」を書いた中野自身の痛切な反省でもあろう。
中野重治のこの文から、時を越えてわれわれ(わたし)が求められているのは、現在と歴史を厳しく捉え、「闇を見透かす強い視力」を養い、希望の光を見失わないことであろう。
《エッセイ》
ジャン・ジュネ『屏風』と目取眞俊の作品をめぐって
斉藤光太郎
今年の夏、自分にとって文学とは、あるいは文化とは何かを考えようと思い、故エドワード・サイードの本を手に取った。タイトルは『晩年のスタイル』。このサイードの遺著では音楽(とりわけ西洋クラシック音楽)に関してはテオドール・アドルノの評論が重点的に取り上げられる一方、文学においてはジャン・ジュネの戯曲『屏風』とルポルタージュ『恋する虜―パレスチナへの旅』が激賞されていた。ジュネについては名前だけ知っていて読んだことがないので、図書館で全集を借りて『屏風』が入っている巻を読んだ。これは上演当時、アルジェリア独立戦争でのフランス軍兵士などを痛烈に皮肉った内容のため、議会で劇場への政府補助金の打ち切りが要求されたという、いわくつきの作品だ。
パレスチナ人であるサイードは当然、1960年代にアルジェリアを舞台として書かれたこの作品を、執筆当時に起こっていたパレスチナのインティファーダ(蜂起)と結びつけて論じている。しかしジュネの戯曲は単純に植民者フランス人の欺瞞的な言動を暴きたてるだけでなく、またアルジェリア人たちの蜂起(というか暴動)を英雄的な行動としてほめたたえるものでもない。むしろその底知れぬ暴力性を、植民地状況の歪みが生みだした「悪」として、しかし必然的な帰結として提出するものだ。しかも登場人物のセリフは常に両義的であり、人間存在の持つ矛盾した側面がキュビズムの絵画よろしく「同時に」発話され、読むものを困惑させて止まない。
なぜこのような奇怪な表現が用いられるのか。そこにはアラブ人の下層階級における「野卑な」俗語表現や反語的な言い回しの反映という他に、社会の最底辺の犯罪者出身であり同性愛者でもあったジュネならではの、切実な問題意識があった。
つまり、そのように疎外された存在には社会に向けて自己を語る「ことば」がない、あるいはあらかじめ奪われている、そして彼らが語る機会を与えられるとき、それはあくまでも社会の公的生活に適応した語彙や表現に基づいてであって、じつのところ彼らを抑圧し沈黙を強いている当の社会秩序から「あたえられた言葉」を通じてでしかない、という認識だ。
『屏風』に先立って書かれた『黒んぼたち』についても、あえてこのようなタイトルを用いたことも含めて、フランス人であるジュネと、アメリカやヨーロッパのいわゆる「黒人」の間にある、乗り越えられない差異が含意されている。つまり、しいたげられ沈黙させられた者たちと、そうではない「私たち」との断絶や、抑圧された人々の「他者」性を意識しているかどうかが大切で、そこにジュネが考える文学の倫理がある。
とりわけ語ることのできない最たる者は、死者である。しかし最も語ることができないがゆえに、最も語られるべきなのも死者の声なのだ。なぜなら死者の思いは最も無視され、「無かったもの」にされているものだから。だから『屏風』ではこの死者たちが舞台装置を使って公然と姿を現し、抑圧者も被抑圧者も共にあって、生前以上に饒舌に己を「語る」。そこには沈黙させられた者とそうでない者の和解が、完全なフィクションだからこそ可能なものとして、提示される。
そもそも『屏風』において、主人公サイッドはじつのところアルジェリア人にとっても裏切り者なのであり、さらにその妻ライラは極度に醜い外見(何らかの疾病?)のため、そのサイッドや姑にも疎まれ、蔑まれている。いわば社会の最底辺のそのまた底辺にある人間、同じアルジェリア人からも差別され、夫からも家族からも見捨てられた疎外の極致とも言うべき存在だ。そのライラが死に瀕して、誰に聞かれることもなく一人こぼすことばを、作者がどのような文体で書き付けたか。全編がいわば「曳かれ者の小唄」のようなものでもあるこの戯曲において、それは決して哀れっぽい嘆きではなく、むしろ自虐と憎悪が凝集することでそのまま祈りと化したような、どこまでも澄みきった井戸の底の水のような無関心さであり、不在の空に向かって投げかけられた凄みのある悪態なのである。
エドワード・サイードがジュネの「詩的爆燃」という表現を引いて解説したように、『屏風』では披抑圧者は同情の対象ではなく、呪いのくさびを打ち込む主体として、しかしあくまでも非・英雄的な俗人として銘記される。死者は断じて美化され祭り上げられることなく、ありのままの姿でむき出しに置かれる。そこにこそ、我々は作者の死者に対する限りない謙虚さを、人格の尊重と「愛」を読み取ることができるだろう。
文学の機能には隠されたものの暴露、忘却されたものの再現がある。それは抑圧されたもの(記憶と存在)の解放でもある。しかしそれはどのような言葉でなら可能か。たとえば、差別されたマイノリティーが自分に有利なマス・メディアの政治・文化状況を利用しようとふるまうとき、その言動が無意識のうちに抑圧者側の言い回しや価値観をなぞってしまっていることが、ありえる。そうなれば被抑圧者の解放と言いつつ、じつのところ別のタイプのマイノリティ−や被抑圧者を踏みつけにすることになり、差別・抑圧構造の再生産につながってしまうのだ。
歴史が「勝者」の、つまり抑圧者の「公式の」言葉で書かれるとしたら、そうでない「被抑圧者の歴史」はどのような言葉で、どのような書式で書かれるべきなのか。この問いを考えるとき、日本では沖縄の現代史に根差した物語をマジック・リアリズム的な手法で書いてきた目取眞俊がいる。マジック・リアリズムとは、およそリアリズムとは反する非現実的な出来事を、しかし幻想小説やSFとは違って、さも起こって当然のように平然と書く手法を指す。戦争体験の傷跡や戦後社会の支配構造の抑圧性など、リアリスティックな認識に基づく目取眞の小説が、なぜそのような幻想的な手法を取ることが多いのか。
彼は本来「語りえぬもの」である死者の声、それも歴史に記されるような有名な人物ではなく、最底辺で何の痕跡も残せぬまま息絶えていった最も抑圧された無力な人々、そのいわば「汚辱にまみれた生」を虚無からすくい上げ、読者へと鋭く突きつける作品を書いてきた。しかし、彼がその書き手、いわば声の代理人となるにあたって、単純なリアリズムを採らなかったのはなぜか。私にはそれはある種の自己抑制であり倫理なのだと思う。
たとえば、自分がその抑圧されている人々の立場にたって、その代弁者として怒りの声を上げるのだ、という姿勢になんの疑いも持たないとしたら、それは自分と披抑圧者の関係を安易に一体化させることになってしまう。いわば披抑圧者を利用することで、現実の抑圧的な体制の一部になっている自分という立場を忘却してしまうという、偽善的で傲慢な振る舞いになりかねない。そんなことをしたら、またしても「沈黙せざるを得なかった者たち」の声はかき消され、その真意は他人に奪い取られてしまうだろう。
だから目取眞が戦死者や従軍慰安婦を「代弁などできないのだ」と何度も強調しながら、一方でその人たちの声をなかったことにしないためには誰かが何らかの形で書かなくてはならない、それは文学というフィクションの作品世界の中でこそ可能なのだ、と言い続けて、自らの手でそのことを実践してきたことに、改めて留意するべきだ。彼の「語らざる者たち」への誠実さが、あのように一見すると解読困難な、錯綜した語りを入れ込んだ文体に結実したことの、その文学的な成果の「政治的な」意義に改めて気づく必要がある。